創価ダメだしブログ

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戸田城聖は『悟達』なんかしていない。

創価の二代会長・戸田城聖の『獄中の悟達』が、池田創価の原点であると創価は主張する。いやソコが創価の原点ならば初代の牧口常三郎は原点以前の人だから創価とは全然関係ない人だよね。なんで牧口会長を初代にするのさ?というツッコミはさて置き、戸田会長の悟達とは簡単に言うと獄中で無量義経を読んで「仏とは生命なり」と「戸田会長が虚空会の儀式に参加したいた」と悟ったことらしい。さらに出獄後の昭和26年2月には「路上の悟達」もあったとか(笑)そもそも2度も3度も悟達してたら最初の悟達の時は悟達してなかったということになるだろうが!というツッコミも置いていて、教学的に言えば無量義経で悟達なんてできるわけがない。無量義経法華経の開経に過ぎず、「無量義とは一法より生ず」とだけ書いてあって、その「一法」について何も説かれていない。一念三千どころか百界千如すら明かされていないのだから本門文底の南無妙法蓮華経に掠りもしない。こんなこと少しでも法華経を学べばすぐに理解できることだ。しかも「仏とは生命也」などということは、既に華厳経において【心仏及衆生是三無差別】と戸田会長の悟達と同意のことが説かれている。しかもこの『獄中の悟達』については52年路線の時の池田創価の教義逸脱のひとつとして宗門から指摘されていて、それに対する創価の回答は戸田第二代会長の獄中の自覚と決意が戦後の折伏活動の起点となったということです」(特別学習テキスト)である。つまり「悟達」ではなく、戸田会長の「自覚と決意」なのである。そもそも、戸田会長自身が著書【人間革命】で「彼(戸田会長)は仏の三身の説を知らなかった。ただ此の経典(無量義経)から仏の実体を汲み取ろうとして思索に入ったのであった。次下の応身の説においては、ほぼわかるような気がしたが、法身・報身を説かれていたこの無量義経の説には、彼はほとほと当惑したのであった。思索すること数時間、彼はハタと手を打ったのであった。『仏とは生命なんだ、生命の一部の表現なんだ』」と書いていてそれを「悟達」だと言っていない。また【戸田城聖全集】・【獄中記】その他の戸田会長の書籍の中に『獄中の悟達』という記述は皆無である。つまり本人は一言も「悟達した」とは言っていないのだ。それはそうだろう。戸田会長は日興門流の信仰への理解度は未熟な部分が多々あったが少なくても「自分は悟りに達した」などと言うような傲慢さはなかった。日淳上人の御指南・御指導をうけていた戸田会長みずから「悟達した」などと言うはずはないだろう。悟達したなら指南・指導は不要だからな。つまり52年路線の時に創価が説明したように戸田会長は獄中で「自覚」と「決意」をしたのであって「悟達」なんかしていない。それが正解である。では、誰がこんなことを言い出したのか?当然それは池田大作である。その理由は「池田本仏論」の創出である。戸田会長=仏様の思考を会員に植え付けることで、創価学会会長(池田大作)=仏様というMCを会員にしたわけだ。この辺の事は全て52年路線の池田創価による教義逸脱として宗門から指摘されている。そして池田創価はそれに対して訂正をしている。『獄中の悟達』も前述の通り訂正されたはずなのに破門後はまたそれを持ち出して『獄中の悟達』を創価仏法の原点などと公式にアナウンスしているわけだ。現在創価がやっていることは52路線の繰り返しなのである。つまり52路線の教義逸脱の反省など微塵もせずに破門になるまで宗門を騙していたのが池田創価である。この辺りの話はいずれ連載したいと思うが、とにかく戸田会長は悟達なんてしていないことは真実である。池田はというと2014年に戒壇大御本尊を棄てて、『病中の誤達』をしたがな(笑)。最後に大聖人仏法における「悟達」とは戒壇大御本尊(大聖人)に対する信心の事だ。戒壇大御本尊に対して強く清い信力・行力を持つ時に我々は仏様の仏力・法力を得ることができる。「悟達」とは正しい御本尊に対する「信心」のことなである。

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