創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

西田亮介氏、公明党サブチャンネルの裏側を明かす。

西田亮介氏が「公明党サブチャンネル」に出演したが、「ノーギャラ」だったことをⅩで明かしSNS界隈でザワついている。西田氏によると、まずは「公明サブチャン」は、制作会社(Ambee)に「完全丸投げ」で作られているらしく、現場には公明党の広報すら来ていなかったそうで、そういうことは余りない異例なことらしい。そして驚いたことに、何の事前打ち合わせが無く収録後に、「なお通例でノーギャラです。」と告げられたそうで、氏は制作費を受注している会社が通例ノーギャラとは一切理解できないといい、改正下請法3条(フリーランス保護)に違反すると思うと述べている。改正下請法は公明党が強く推進したの法律なのに何とも呆れたものである。この西田氏の投稿に公明党の広報委員長に谷合氏とAmbeeが謝罪して西田氏が許したようだが、事が表沙汰になってから慌てて謝罪するあたりが公明党らしい。またAmbeeは西田氏が不誠実というクレームを入れたにも関わらず、それを無視していたそうだ。(だからⅩで発言したらしい)西田氏にとってみれば、散々シカトしておいて今さらかよ。という思いだったろうが大人の対応をしたということだろう。ただ今回の件を公明党が本当に知らなかったのならば、公明党は下請法違反の疑いのあるAmbeeとの契約解除をするべきだと思うが、この制作会社Ambeeの代表の宮武正之氏は創価大出身らしく、要するに創価フロント企業なのでお咎めなしで済んでしまうだろう。もっとも代表者が創価出身がならばノーギャラも納得する。何せ創価は何十年も創価学会員にノーギャラどころか負担をかけて公明党支援をさせている支援団体だから協力するのは当たり前という感覚なんだろう。むしろノーギャラだけで済んだのは、西田氏にとって不幸中の幸いか(笑)因みにAmbeeはあざとい動画の「創価学会日常ちゃんねる」の制作も手がている。さて西田氏の投稿に相変わらずウザ絡みしてくるのが、公明支援の創価信者のRICEの連中で、公明党を擁護するするのはまだいい方で、西田氏を侮辱する発言も散見している。本当に創価員ってどうしようもない。多分、西田氏は公明党に関しては何の他意もなくフラットに見ているだろうが、支持者の創価学会員に対しては悪印象を抱いていると思う。これが多くの一般有権者が嫌い拒否する理由だろう。公明党自体が嫌いなのでなく、その支持者の創価学会員が嫌いだから公明党を支持しないのだ。ナポレオンは、「真に恐れるべきは有能な敵ではなく無能な味方である」と言ったが、まさに公明党が恐れるべきは、無能な創価学会員だろう。最近は、そんな創価員が大量に湧いてきて今までより多くの人が創価員の異常さを目にする機会も増えたので一般人の公明党支持は広がらないだろう。一向に上昇しない政党支持率はそれを裏付けている。最後に西田氏は「公明党サブチャンネルには、もう二度と出演しません」と公明党との決別をしていたが、やはり一般人は公明党と関わらない方がいいと思う。公明党は公党だが、その支援者は非常識で異常な創価員なのだから距離を置くのが得策である。創価公明と絡むのは佐藤優に恥も外聞も知性もないような人間~つまり創価員と同質な人間でないと務まらない。一般人には無理である。しかし出演を依頼しておいて、後になってノーギャラを伝えるって凄いよな。世間では到底考えられない事が創価公明では「通例」なのだから恐ろしい。

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御書に書いてない⁉池田創価のインチキ法門⑥「日蓮大聖人直結」

創価学会は大聖人直結の団体」だと創価の与太話を信じている創価学会員は大勢いる。この「大聖人直結論」は破門後に言い出したのではなく、52路線時に既に池田大作が、「日蓮大聖人の正真正銘の門下であるならば、日蓮大聖人の振る舞いと、その精神を根本にすべきなのであります。それは、途中の人師、論師ではないということなのであります」(池田講演S52.2.17)と発言し、後日『特別学習会テキスト』でこの発言の教義逸脱を認め弁明している。それを破門後にまた持ち出したのだ。

特別学習会テキスト

もっとも現在の創価学会の言ってることはほぼ52路線の逸脱教義の蒸し返しで、一度は創価が非を認め謝罪した内容だ。池田は大石寺の血脈に関して神秘的でナンセンスと言っていたが、寧ろ日蓮大聖人の御書を読むだけで直結するという主張こそオカルトでナンセンスだろう。こんなオカルトが通じるなら『古事記』を読んで理解したから私は天照大神と直結だからと言うようなモノである。また御書を読んで題目あげれば直結ならば、顕正会や正信会も大聖人直結の団体なのか?そもそも大聖人が直結信心ならば創価学会に永遠の指導者など不要だろう。いかに池田大作のバカなのか良くわかるというものだ。もちろんそれに騙されている創価学会員は池田以上のバカだろう。大聖人は「よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず」(華果成就御書)と師弟相対の重要性を御指南され、日興上人は「この法門は師弟子を正して仏に成り候。師弟子だにも違い候へば、同じ法華を持)ちまいらせて候へども、無間地獄におち候也。(中略)聖人の御後も、末の弟子どもが、これは聖人の直の御弟子と申やから多く候。これが大謗法にて候也」(佐渡国法華講衆御返事)と大聖人が御入滅後に「自分は大聖人の直弟子だ」という輩は大謗法だと断じている。また近代の法主上人も、「(本師の滅後になると)動(やや)もすれば、なにかの感情で事を宗義に托して、自分は何某の弟子でない、信者でない、添けなくも宗祖大聖人の御弟子である、と云ふ反逆児ともいはるべき者が出現する」(第59世日亨上人)、「此の頃信心相承を振り廻す人があるが御笑ひ草である。仏家付嘱の儀が信心の有無によるなんどは世の末の議論である」(第65世日淳上人)と、信心の血脈のみの相承や直結信心を主張する人間を厳しく断罪している。創価以外にも異流義に陥った邪教の者どもは、宗祖直結を言い出すことが多い。それは逆に言えば自教団が日蓮大聖人とは何の関りもないということを自白しているのと同じだ。大聖人が六老僧を本弟子に定めたのは、身勝手な直結信心を戒め師弟相対の信心を厳守されるためだ。大聖人は六老僧を御自身の代理とてそれぞれの弟子檀那に指導していくことを命じたのだ。大聖人が定めたこの方程式は大聖人滅後も同じなのである。日有上人の『化義抄』にも、「手続ぎの師匠の所は、三世の諸仏高祖已来代代上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能よく能く取り定めて信を取るべし、又我が弟子も此くの如く我に信を取るべし、此の時は何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり、是れを即身成仏と云うなり」と書かれいる。そもそも池田大作自身がかつては、「すなわち五老僧達は、"自分は日興上人の弟子などではない。大聖人の弟子である"とし、日興上人に信順できなかった。さらに迫害を恐れ『天台沙門』とさえ名乗った。その根底は、日興上人と対等であるなどという傲りであり、嫉妬であり、保身に堕した卑しい感情であった。日亨上人は、反逆の徒は常に、こうした感情を言葉巧みに正当化していくものであると御教示されているわけである」(『広布と人生を語る第10巻』)と言っていた。図らずとも池田は自分の過去の言葉で自分自身が、「傲り」「嫉妬」し「保身」に堕した「卑しい」人間であることを認めたのである。「大聖人直結」なという創価学会員もまた池田と同じ卑しい人間である。そしてそんな「卑しい人間」を量産するのが創価学会の信仰なのだ。

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釈迦(仏陀)の弟子達⑥【ソーパーカとスッパブッダ】

ソーパーカの母は出産の時に気を失ってしまい死んだと思われて墓地に運ばれ火葬されかかりましたが、その時に暴風に見舞われ墓地に置き去りにされてしまいました。皆がいなくなった後に正気を取り戻してその場でソーパーカを出産し直後に亡くなりました。墓守が彼を見つけ拾い上げて自分の息子と一緒に育てられます。(諸説あり)ソーパーカは七歳の時に仏陀に弟子にして欲しいと頼みます。仏陀が家族に承諾を得るようにいうと、彼は養父と共に弟子にして欲しいと懇願し仏陀の弟子になります。孤児で不可触選民だったソーパーカでしたが、後に彼は教団でも有名な老僧になります。「不可触選民」とは、インドのカースト制でカーストの外に置かれた最下層の民のことで、日本だと「穢多」「非人」と呼ばれ差別を受けて人々のようなものです。ガンジーが不可触選民をハリジャン(神の子)と呼び平等を訴えたことは有名です。(現在はハリジャンという呼称は禁止されています)。またスッパブッダは難病(ハンセン病)で貧しい暮らしをしていました。ある日、大勢の人が集まっているところに遭遇します。彼は食物にありつけると思って近づきましたが、それは仏陀の説法を聞いている人々の集まりでした。物乞いを諦めて帰ろうとするスッパブッダ仏陀は呼び止め彼に法を丁寧に説きます。するとスッパブッダは真理を悟り、仏陀に出家を許されます。しかし残念な事に出家を許されて帰る途中に牛に角で突き殺されてしましまた。仏陀はスッパブッダの過去世について、「スッパブッダは、このラージャガハ(王舎城)で長者の子であった。庭園を歩いていたときタガラシキンという聖者が、城市に托鉢のために入るのを見てこう思ったのです。『何なのだ、病人の衣でうろつく、このハンセン病者は』と。そして唾を吐いて、軽蔑して、立ち去りました。その報いで数百千年も地獄で煮られたのです。その報いの残りでこのラージャガハで貧しく生まれた。」と説いてます。仏教の世界では僧侶を出家といいますが、出家というのはただ世間から離れるという意味だけはなく、カーストという「差別」を捨て、「差別」から離れ、「無差別」な生き方をすることが「出家」の本質だと思います。故に、上座部(小乗)よりも、大乗仏教の方が仏陀の精神を正しく継承していると思います。

■関連記事▶テーラワーダ仏教の虚実【テーラワーダ仏教】 - 創価ダメだしブログ

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他門流寺院見聞記⑩【本如山浄圓寺・創価系単立(旧日蓮正宗)】※創価本尊発祥地

先日、栃木県小山市の『浄圓寺』まで行ってきました。『浄圓寺』は日蓮正宗から離脱し、創価学会に寺宝である日寛上人御書写の本尊を提供し創価偽本尊の作成・販売に関与した旧日蓮正宗の末寺で、現在は創価系の単立寺院になっています。大多数の創価員はニセ本尊発祥の浄圓寺に行ったこともないでしょうから、創価員に成り代わり大謗法者の退転坊主が占拠している浄圓寺を見学してきました。『浄圓寺』は、乾元2年(1303) に、太夫阿闍梨日尊が建立された日蓮正宗の古刹寺院で、旧本堂は江戸時代の宝永年間(1704~1711年)に完成し、現在の本堂は昭和44(1969)年に改築しています。しかし、平成4年に当時の住職だった成田宣道と創価学会員の総代・佐藤某が信徒の意志を無視して日蓮正宗から離脱して、日蓮正宗の日寛上人書写の御本尊を創価に提供するという暴挙を行ったのです。

離脱時の状況について、当時浄圓寺支部の講頭だった小林邦三郎氏はその経緯を次のように証言しています。「元住職成田宣道は、今から三十年程前に赴任してきました。当時は新進気鋭の良い住職をいただいたと講員一同も喜んでいましたが、元々学会の青年部出身であった故学会一辺倒で、法華講は邪魔者扱いでした。葬式法事に来ていただいても横柄な態度でどなり散らすことが多く親戚中の顰蹙を買うのみでした。過去帳を頼んでも二年も三年も書いてくれず、しまいには位牌をなくして戒名が判らなくなったりして大変困りました。」、「だんだん学会員の御講への出席が減り平成三年の四月頃には学会の総代をはじめほとんど来なくなりましたので今度は法華講員を前にして学会を批判するようになりました。学会が寺院を護らないならば我々法華講員が護るしかないと思い、それなりに努力してきました。寺院に参詣するのは法華講員のみとなったので今度こそ法華講の面倒を見てくれるものと期待しておりましたが、寺院で唱題会を行っても言葉一つ掛けてくれませんでした。年一度の支部総会を開催したく住職に相談したところ、総会など必要ない信徒は寺院に参詣すればそれで良いのだと全く話になりませんでした。」、「今度の問題は学会が悪いとの言葉を口にしていましたので、まさか宗門離脱するとは思いもしませんでしたが、ただ住職の弟など身内が次々に離脱したとの話を聞き大丈夫かなとの懸念はありました。しかし離脱するような素ぶりは全くなく離脱したときは、まさかと思う半面、遂に来るべきものが来たかという思いもありました。」、「浄圓寺離脱のことは直ちに信行寺の福田御尊師から支院長様へ、そして本山や教区の寺院にも連絡されました。その晩は指導会を行うので浄圓寺に集合するようにと住職からの連絡を受けており、その指導会での対応についても福田御尊師の指導を受け待機しておりましたら、門は固く閉ざされ門扉には都合により本日の指導会はとりやめますと掲示しておりました。おそらく当方の動きを察知してとりやめたものと思われます。」「支院長様はじめ御僧侶三名、法華講員数名で浄圓寺に行き住職に面談を求めましたが、佐藤という学会員の総代がインターホンで対応し、住職は不在です。いつ帰ってくるか分かりません。と言うので一応掲示板を写真に収め引き上げました。」このように成田宣道は法華講信徒に何の説明も話し合いも無く寺院を乗っ取たのです。何という卑劣な行為でしょうか。これが創価学会のやり方です。成田宣道は死にましたが現在は元正宗の所化小僧で正式な僧侶でない青年僧侶改革同盟の渡辺雄範(現在は渡辺敏)が住職として居座っているようです。一日も早く薄汚いコスプレ坊主から浄圓寺を奪還してほしいです。

追伸、今回浄圓寺で色々と面白い光景を目にしてきました。その話は、また近いうちに記事にします。

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政治思想におけるポピュリズム【政治・経済学】

既存政党が新興政党を批判する時によく使うのが「ポピュリズム」というワードです。現在の日本では、参政党やれいわ新選組などが「ポピュリズム政党」と言われ批判されています。「ポピュリズム」を日本語にすると、「大衆迎合主義」「人気取り政治」などとネガティブな意味で使われますが、日本政治の現状としては、維新あたりから始まって、れいわ新選組・参政党・日本保守党などのポピュリズム政党が台頭してきており、ポピュリズムを批判してきた公明党SNSなどを使ってポピュリズムに回帰しています。ポピュリズムの起源はアメリカ南部・西部の農民が大企業や政府の権威的に対して反旗を翻した農民運動が社会改革運動に発展してたことだと言われています。ポピュリズムの定義をおおまかに説明すると、ひとつは固定的な支持層でなく広く国民に直接訴える政治スタイルで、もうひとつは庶民の立場からエリートや既存政党を批判する政治スタイルです。ポピュリズムを批判する人々はポピュリズムは民主主義の敵の様に言いますが、英国の政治学者のマーガレット・カノヴァンは「ポピュリズムは、デモクラシーの後を影のようについてくる」と民主主義とポピュリズムの関係を表現しています。近代民主主義について政治理論研究者の山本圭は、デモクラシーには「立憲主義」的な「自由主義」的解釈と、「ポピュリズム主義」的な「民主主義」的な解釈があると主張しています。立憲主義的な解釈とは法の支配による権力の抑止を重視し、ポピュリズム的解釈とは国民の意志を実現することを重視しする解釈です。また、カノヴァンはデモクラシーを「実務型」と「救済型」に分類しました。「実務型」とは政治家や官僚主体の政治行政で、「救済型」とは国民が直接参加する国民主体の運動です。そして「実務型」が優位に立つと国民に疎外感が生まれるためにポピュリズムが広がるとカノヴァンは分析しています。まさしく今の日本でポピュリズムが広まっているのは、これまでの既存政党の「実務型」の政治行政による、国民の疎外感に有ると言えます。仏のツヴェタン・トドロフが「ポピュリズムとは伝統的な右派や左派に分類できるものではなく、むしろ「下」に属する運動である。既成政党は右も左もひっくるめて「上」であり「上」のエリートたちを「下」から批判するものだ」と指摘しているように、日本国民は既存政党に怒りを抱いている。それがポピュリズム政党が生まれ躍進する理由です。ところが既成政党の政治家たちはそれが理解できず、ポピュリズムを「大衆迎合」「愚衆政治」という意味合いで使います。そうした「民衆」を見下した政治エリート面している政党・政治家がいる限り、ポピュリズムは影の様についてくるのです。そもそも現代日本において「愚かな民衆」はほぼいません。「愚か」だと思ているのは特権意識を持った「愚かなエリート」「愚かな政治家」だけです。民衆が政治思想的に成長して健全なポピュリズム主義の政治に変わっていくとを期待しています。企業や宗教団体などの「組織票」は日本にとって有害だと思います。

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本部幹部会は年間2回に縮小。衰退する創価学会の現実。

来年の創価学会の活動指針が発表された。年間テーマは『世界青年学会・躍動の年』だそうだ。ここ最近では『世界青年学会』を自称しているが、日本の創価学会は高齢化が進み女子部はとっくに消滅し男子部も風前の灯火でなのが現実で、『青年学会』との言葉が虚しくそして可笑しく聞こえる。活動の具体的な内容は相変わらずでマンネリ化しているが、来年から変わることもあった。ひとつは座談会で、「毎月の開催を原則としつつ、全国一律の「座談会の週」は設けません。」創価公式サイトより引用)とのことで、座談会の日程は本部ではなく各地方・県で決まることになった。3・6・9・12月は原則として地区座談会の開催として座談会参加者数の報告は、3・6・9・12月だけになるらしい。また、毎週行われていた協議会や毎月の「励まし週間」設定の有無や期間も方面・県で検討し決める事になったそうだ。こうなると協議会や、座談会も報告月以外は開催しないという事も十分予想できる。そして驚いたのは、毎月の本部幹部会(本幹)を年2回だけの開催と大幅に縮小したことだ。本幹といえば法華講の御講に当たる行事で、創価学会では重要な会合ではずだ。池田大作も、「リズムある活動には、力がわく。希望がある。持続がある。広宣流布は三世永遠の遠征である。ゆえにリズム正しい、月々の着実な前進が大事になる。その勝利のリズムをつくりゆく回転軸が、毎月の『本部幹部会』である」と、毎月の勝利のリズムを作るのが本幹であると指導している。そんな永遠の指導者の指導を無視して、いきなり月イチから年ニに大幅に縮小するするとは実に驚きである。これまで富士日興門流の大石寺の教義を変更してきて完全に日蓮大聖人の仏法色を消してきたが、ここにきていよいよ池田大作色も薄めていこうと魂胆だろうか。先日の池田の三回忌も画像で確認する限りでは、焼香台も用意されておらず喪服も着用せずに参列している会員もいて、「ぞんざいなやっつけ仕事」のような感じで、とてもじゃないが池田を尊敬し偲んでいるように見えない追善法要の模様だった。今の創価日蓮大聖人はもとより、池田すら都合よく利用しているように見えるのは現役の創価学会員の中にもいるのではないだろうか。もっとも昔と違って池田のスピーチもなく、原田達のつまらない話を聞くような本幹など毎月開催したところで会員達が歓喜することもないだろうから年2回どころか無くなっても支障はないだろう(恐らく将来的には本幹はなくなると思う)。これが衰退する創価学会の現実の姿だ。衰退の原因は、いまの創価に人々を引き付けるコンテンツがないことに尽きるだろう。池田コンテンツは消費期限を過ぎてしまい、本尊は正宗から教義は身延からパクっているので創価信仰の中身は空疎。やっている事は公明党の応援という政治活動なのだから、信仰としての魅力は何もない。唯一いいところを挙げるとしたら地域のコミュティとして役割くらいなのだが、そのコミュティを提供する場所である『会合』を減らしてしまってはコミュティと力も弱まっていくだろう。現在はネットやラインなど対面しなくてもコミュニケーションを取る方法はあるが、深い人間関係を築くには、やはり直接顔を合わせ会話をすることは必須で、多すぎる創価の会合は深い人間関係を築く方法でもあった。特に本幹は本部と末端をつなぐ唯一の場だったが、それが失われていくのだから創価組織の益々の弱体化は避けられないだろう。これでは各地に建てた会館もますます利用機会がなくるから地方の会館は売却され、太閤園を買収した跡地に建設するような大きな施設に集約されていくのだろう。5年後の創立100周年には更に邪教化が進み衰退した姿を見られるだろうから楽しみだ。

■関連記事▶太閤園を創価が買収。 - 創価ダメだしブログ

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離脱創価僧の惨めな人生

先日、某日蓮正宗の御僧侶と少し懇談する機会がありました。その御僧侶の従兄弟にあたる人も日蓮正宗で得度したらしいのですが、平成の宗創路線の時に宗門を離脱して池田創価の走狗のコスプレ創価坊主になってしまって現在に至っているそうです。従兄弟同士なので顔を合わす機会も有り、御僧侶も都度折伏なさっているそうですが一度池田創価の軍門に下ってしまった離脱僧は再び富士日興門流に戻ることは難しいようです。その創価坊主は、「今から宗門に戻ったら昔と同じ待遇にしてくれるか?」と御僧侶に聞いたようですが、「そんなの無理に決まっているだろう。最初からやり直しだ。」と言われ、それでは生活が出来ないから宗門に戻るのは無理だと答えたそうです。御僧侶の話によると、その創価坊主は創価学会からの給料で生計を立てているらしく、仕事はたまに創価学会員の葬儀や仏事に呼ばれた時に仏事をするらしいのですが、そうした仕事らしいことは年に一度あるか無いかだそうで、あとは創価会館寺院の雑用をしたり、自宅ですることもなく毎日を過ごしているそうです。一部の離脱創価坊主は、寺院の住職や執事として収まることが出来ていますが、それ以外は創価坊主は概ねこの御僧侶の従兄弟と同じような人生を歩んでいるのでしょう。この話を聞いて、「なんと惨めな人生なのだろう。」と憐れみを感じました。毎日何もせずダラダラと過ごし創価からの不労収入を得ているのは、ある意味では幸せなのかもしれませんが、新約聖書にも「人はパンのみにて生くるにあらず」とあるように、人間はやはり「やりがいのある仕事」をしてこそ、日々の充実感や喜びを感じるのではないでしょうか。ましてや僧侶という職業は、誰もがなることのできない専門職です。得度して修行して僧侶になる訳です。創価坊主は修行を途中で投げだしたので、僧侶とは呼べませんけど本人達は自分をコスプレ禿ではなく僧侶だと思っています。それなのに僧侶としての仕事はほとんど無いわけです。信徒に説法できるわけでもなければ弘教もできない。袈裟衣も埃にまみれているかも知れません。ただ創価から給料もらって、朝起きて飯食って寝るだけの日々。まるで何も仕事が与えらずに一日会社にいるだけの窓際社員のような状態。ここまでくると創価学会による坊主イジメに思えます。「僧侶不要」と言っている創価学会の手下になった時点で、この結末は予想できたとは思いますが、目先の欲に目が眩んで長く惨めな余生を過ごすことになったのは自業自得です。「名聞名利は今生のかざり、我慢偏執は後生のほだしなり。ああ、恥ずべし恥ずべし、恐るべし恐るべし。」(持妙法華問答抄)。日蓮正宗で希望に溢れ得度した若き日を思い出して欲しいものです。

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