創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

離脱僧達の未来。

先日からコメントをいただいているサカイさん。学会員なのにお寺で唱題をしているとの話。東京・立川市大宝寺。まさか日蓮正宗の寺院なわけないし不思議に思って調べてみたら、昔の長栄寺だったので納得した。長栄寺創価破門後に住職である工藤玄英氏が日蓮正宗から離脱し創価系単独寺院となったお寺で、それがいつの間にか大宝寺へと名称変更していたわけだね。長栄寺ならかれこれ20年以上前、まだ男子部バリ活だった時代に訪ねてその時に工藤氏と少し話をさせてもらった記憶がある。長栄寺だけでなく当時は広宣部の研修と広宣仲間と勝手に銘打って、青年僧侶改革同盟(正宗側からなら離脱僧)のお寺を数件訪ねて歩いた。その中のひとつが長栄寺でそれがサカイさんの言う大宝寺ということだ。確か創価から追放された宮川雄法氏は当時工藤住職の元で執事として長栄寺に在勤したいた記憶がある。離脱僧だと松岡幹夫氏や宮川雄法氏が学会員には有名だが、工藤氏は宗門離脱の初期メンバーの中心的人物である。俺はこの離脱僧達については松岡氏のように僧侶の肩書をある意味捨てて仏教思想家的な立場になるのが本来の離脱僧達のとるべき態度だと思っている。彼らは何故「僧侶」と呼ばれるようになったのか?それは日蓮正宗で修業をしたから「僧侶」になったのだろう。つまり彼らは日蓮正宗に在籍している限りにおいては「僧侶」であるが、そこから離脱したら「僧侶」ではないはず。そう考えるのが一般的な考えだと思う。例えば真言宗の僧侶が真言宗をやめて日蓮正宗に移籍しても即そのまま日蓮正宗の僧侶にはならないだろう。真言宗で僧侶の資格をとっても日蓮正宗の修行をしていないものが日蓮正宗の僧侶になれるはずはないだろう。離脱僧達も同じだと思う。彼らは日蓮正宗の教義を否定し日蓮正宗を離脱した時点で「僧侶」でもなんでもないはずだ。正宗を離脱して創価で修行をして創価から「僧侶」だと認定されれば「創価の僧侶」という解釈でいいとは思うが、そもそも創価は「僧侶不要」が教義だし、創価に僧侶としての修行を行うようなカリキュラムなんて存在しない。にも拘わらず、離脱僧達は自分達を「僧侶」だと思い、創価は彼らを「僧侶」だという。サカイさんが「袈裟衣を着てれば僧侶だというのはおかしい」といっていたが、彼らが「僧侶」を名乗り創価が僧侶だと認定しているのは「袈裟衣を着ている」以外の理由がない。離脱僧は何故創価の僧侶なのか?いつどこで創価の修行を積んで、誰から「僧侶」であると認定されたのか?このような疑問もなく離脱僧達を僧侶だと思っている学会員がいるなら、「袈裟衣に騙されている」のはキミ達の方ではないかと思う。さて、話は戻るが工藤氏などの改革同盟(離脱僧)の人と数人と話した共通点は、一つは日顕上人への血脈否定で、もうひとつは戒壇大御本尊が信仰の根本ということだ。(松岡は狂ったが)つまり彼ら離脱僧は、俺が話した時点では血脈相承(しかも日顕上人から)は否定しているが戒壇大御本尊を否定はしていなかった。ということである。それは当然で大聖人仏法の法門法義を学び修行して「僧侶」となった者が戒壇大御本尊を否定するなら袈裟衣を脱げよという話である。その点、松岡氏は一応そこだけは筋が通っている(言ってることは全然メチャクチャだが)工藤氏も以前創価が改革同盟の名前を使って作った創価本尊に関するパンフレットについては明らかに嫌悪感を示したようだが、その後の大御本尊を捨てた創価の教義変更を離脱僧達はどう思っているのだろうか?といっても彼らは創価なしでは生きられないだろうから是非もないのかも知れない。だた離脱僧達の未来はそんなに明るくはない気がする。もともと「僧侶不要」の創価に「僧侶」として在籍してること自体がナンセンスだが、池田センセが元気だった頃は彼ら創価僧も大切にされてきたようだったが、原田会長になってからは創価僧の扱いは小さくなったというか雑になったような気がする。元々の身内ですらカットする原田創価である。池田センセを慕っている離脱僧達をこのまま創価に置いておくはずはない。現に宮川雄法氏も追放されたし。創価に逆らわなければ「生かして」もらえるだろうが、そうでなければ創価にカットされてオシマイなんだろうなって思う。もっとも今後創価僧は増えることはないから今いる離脱僧達がいなくなれば創価から「僧侶」は消え去る。改革同盟は大聖人の仏法を仏法を守り弘めるために正宗から離脱したはずではなかったのか?本当にそれでいいのか?って思う。俺は正宗に懺悔して大聖人の仏法の元に戻った方がいいと思うのだが。


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