創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

御講拝読御書研鑽(2020年5月・如説修行抄)

末法の始めの五百年には純円一実の法華経のみ広宣流布の時なり、此の時は闘諍堅固白法隠没の時と定めて権実雑乱の砌なり、敵有る時は刀杖弓箭を持つ可し敵無き時は弓箭兵杖何にかせん、今の時は権教即実教の敵と成るなり、一乗流布の時は権教有つて敵と成りてまぎらはしくば実教より之を責む可し、是を摂折二門の中には法華経折伏とは申すなり

今月の御講は私のお寺は参詣禁止で参詣できず自宅で今月の拝読御書を自己研鑽です。早く普通にお寺に参詣できるようになって欲しいと日々祈ってます。そんなわけで今月の拝読御書の「如説修行抄」を研鑽してみたいと思います。

まず冒頭の【純円一実】の「円」とは天台の化法の四教の「蔵・通・別・円」のうちの円教で一実というのは「一仏乗」という意味でどちらも「法華経」の事をいいます。さて文上に置いては「法華経」と書かれていますが、観心本尊抄

◆在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり

と書かれているように釈迦在世に置いては法華経本門の一品二半(寿量品の1品とぞの前後の半品)が法体ですが、末法に置いては妙法五字が広宣流布の法体とると言われています。ですから本文の【純円一実の法華経とは文底の法華経、すなわち南無妙法蓮華経広宣流布時であるという事になります。勘違いしてはいけないのは上記の観心本尊抄にかかれている【題目の五字】とは修行としての「題目」ではなく法体としての「題目」即「大御本尊」ということです。末法においては釈迦の法華経でなく大聖人のご本尊を流布するのかという理由はその次下に【此の時は闘諍堅固白法隠没の時】とあるように、末法にいては様々な教がお互いに争って白法(法華経)の功徳がなくなるからです。ここら辺は細かい説明は省略しますが、「時」によって衆生も「機根」が変わりそれによって「説く法」も違うのです。簡単に言えば末法は本未有善の衆生の時なので下種仏法でないと救えないということで、少し前に三益の話で書いたと思いますのでそちらを参照してください。

次に、【敵有る時は刀杖弓箭を持つ可し】折伏に例え、【敵無き時は弓箭兵杖何にかせん】とは摂受に例えている部分です。次下に【今の時は権教即実教の敵と成るなり】とあるように末法今時は「折伏」の修行が時にあったまた如来の説に合致した修行であるということです。ここで【刀杖弓箭を持つ可し】とありますが、我々大聖人門下の【刀杖弓箭】とは本抄の本文に、

◆忍辱の鎧を著て妙教の剣を提げ一部八巻の肝心妙法五字の旗を指上て未顕真実の弓をはり正直捨権の箭をはげて大白牛車に打乗つて

と書かれているように、「忍辱の鎧」であり「妙教の剣」であり「未顕真実の弓」「正直捨権の箭」です。「妙教の剣」とは折伏をする勇気でしょうか、「未顕真実の弓」「正直捨権の箭」は教学かも知れません。「大白牛車に打乗る」とは勤行唱題ではないかと思います。いづれにしても【刀杖弓箭を持つ可し】とは大御本尊を信じ持つことです。大御本尊を強く受持れば他宗・他教の徒など恐れるに足りません。【一乗流布の時は権教有つて敵と成りてまぎらはしくば実教より之を責む可し】との仰せのままに恐れることなく実践することが大切です。特に現在では、創価顕正会といった身延以上に紛らわしい邪教団が跋扈している時代です。彼らは大聖人仏法ではない独自の己義を大聖人仏法だと偽っています。また大聖人の魂が入っていない本尊風掛け軸を大聖人の本尊として何も知らない会員さんに売りつけています。こうした邪義は責めなければいけません。それが折伏であり如説修行なのです。これは破邪顕正のうちの「破邪」であり折伏の中の折伏です。「破折」を表にして「顕正」するのが「破邪」です。逆に「顕正」とは大御本尊の偉大な力を表にして「破折」することをいいこれは折伏中の摂受といえます。「破邪」」「顕正」は一体ですが、どちらを表にするかでアプローチは変わります。どちらを「表」にするかの私の判断基準は、

◆無智悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし(開目抄下)

とのお言葉に準じています。この御文では「国」ですが折伏が為人悉檀であることを考えれば、無智悪人の人には「顕正」を邪智謗法の人には「破邪」を表に折伏をしています。創価幹部やバリ活なんて思い切り邪智謗法ですから容赦なく「破折」する。それが如説修行です。今回の御文も色々と細かい事も書きたいのですがあまり長文になっても読みづらくなってしまうので、簡単ですがこれで今回の拝読御書の研鑽発表を終わらせてもらいます。


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