創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

『〈男子部教学室論考〉「教学要綱」は創価ルネサンスの集大成』を読む。

創価学会教学要綱の考察』を執筆・出版した須田晴夫氏が文春の取材を受けたことでSNS等では須田批判をポストする創価学会員が急増しているが、『「教学要綱」は創価ルネサンスの集大成』と題する記事が聖教新聞に掲載され創価からの須田書籍に対する公式な創価の反論と予想通り須田氏を反逆者認定した。須田氏の著作は8月に出版されているのに今頃になって機関誌に反論を掲載するのは創価学会員向けのパフォーマンスなのだろうがそんな創価の反論を早速鵜呑みにする創価学会員もかなり重度のMC状態だ。

■関連サイト▶〈男子部教学室論考〉 「教学要綱」は創価ルネサンスの集大成

教学部ではなく何故か男子部教学室から発表されたの反論は上にリンクしたが、どても稚拙な反論でもっとも創価教学自体が理論破綻しているのだから同情する面もあるが、これが今の男子部教学室のレベルかと思うと哀れに思える。さて男子部教学室の反論を一部抜粋してみると(以下黒字は聖教オンラインより抜粋)「日蓮大聖人は釈尊を超越した根源仏であると主張するが、これは宗門教学そのものであり、大聖人の御書や日興上人の著作に基づいたものではない。」と大聖人本仏論は正宗教学だと一蹴しているが、大聖人を御本仏としたのは日興上人だけであり唯一日蓮正宗だけである。これこそが日蓮正宗が日興上人から続く大聖人仏法の正当である証しだ。そして大聖人御本仏論というのは観心釈だ。創価や身延のように御書や経典に書いてあることだけを採用するは教相釈。教相釈では種脱相対ができない。いうまでもなく大聖人の御本尊は「観心の本尊」であり大聖人の仏法は下種仏法である。従って教相釈のみに固執するのは大聖人の仏法とはいえない。それに毎度いうが御書とは信徒向けの対機説法であり随他意の教えである。釈迦仏法で言えば爾前権経なのである。つまり今の創価教義は大聖人仏法における爾前権経でしかない。釈尊も大聖人も、根本の法である南無妙法蓮華経によって仏になったのであり、上下・勝劣関係にあるものではない」釈尊は南無妙法蓮華経を修行して成仏した本果の仏で。大聖人は南無妙法蓮華経を所持し修行なく即座開悟した本因の仏だ。本因は能生であり本果は所生なのだから自ずと釈尊と大聖人の間には上下・勝劣は存在する。「「人法一箇」「久遠元初自受用身」といった用語が用いられていないと指摘するが、これらについて、学会教学では、宗門教学で用いるような大聖人を神格化・神秘化する用語としてではなく、実践に即したより深い意義を掘り下げてきた。そのうえで、これらの用語を用いなければ大聖人の仏法を説明できないものではないことから、『教学要綱』では用いられていないのである。」「人法一箇」や「久遠元初自受用身」は正宗用語だから使わないそうだ。いい心がけであるが、正宗用語は使わないのに正宗本尊を使っているのはどういう神経しているのか理解できない。それに本尊義について正しい理解なくして正しい実践は不可能だ。そして「人法一箇」や「久遠元初自受用身」無くして正しい本尊義は理解できない。何故なら本尊の当体は久遠元初自受用身の色心二法即南無妙法蓮華経であるからだ。「「百六箇抄」「本因妙抄」などの相伝書を引用するが、これらの相伝書が宗門の法主信仰の温床となってきたことは事実である。」正宗に「法主信仰」などという事実はない。創価が無理やりこじつけているだけのエビデンスはまるでない無知性な論説だ。また法体に関する詳細な御指南は一般信徒宛ての御書に示されているわけもない。従って相伝によらなければ法体が理解できる道理もない。「宗内でしか通用しない相伝書に依拠するのでは、普遍的な説明にはならない。」宗派内の重要な法門・法義を示すのが相伝書の特徴である。それを否定するなら聖書もコーランも普遍的な説明にならないし、ましてや池田大作が書いた私小説の人間革命など全く普遍的な価値はない。普遍的な説明ができないのは創価が大聖人の仏法を理解できない異流儀だからだ。それに相伝書を使わなくてもいくらでも大聖人仏法の普遍的な説明はできる。「『教学要綱』では、論拠とする御書は、日蓮仏法の骨格というべき十大部を中心としている」「日蓮正宗宗門の神話的・独善的な教学から明確に距離を置いたものであること」正宗教義を否定しておきながら、日蓮正宗大石寺の開祖である日興上人が定めた「十大部」を採用するという節操のなさ。どこが「明確に距離を置いている」のか?不明確にもほどがある。自分たちに都合のいい正宗教義だけを借りパクする創価教学は「寸借詐欺教学」といえよう。また正宗教学のどこが神話的・独善的なのか創価教学部は具体的に示したことがない。否、示せないのだ。何故ならこれらの言葉は正宗を貶めるために印象操作をしているだけだからだ。「「僧宝」について、『教学要綱』は、あくまで「僧宝とは仏宝と法宝を伝える教団(サンガ)のこと」、つまり僧宝とは特定の個人ではなく教団であるという仏教本来の定義のうえから」この論説は幸福の科学大川隆法の説法と全く同じ(爆笑)仏教におけるサンガとは仏法を信仰する修行者の集団だ。仏法を信仰するというのは三宝帰依にすることが最低必要条件である。最初に三宝帰依して初めて仏法上のサンガになる。つまり創価がサンガとして僧宝になるためにはサンガになるための僧宝の存在が必要不可欠となる。ちょっと考えればこれくらい道理は分かるだろうに。「「一大秘法」を「本門の本尊」とする解釈は、御書にはない。そのことはすでに、2014年の教義条項の改正に際して確認している」創価教学の解釈なら本門の本尊=法宝なのだから、一大秘法の南無妙法蓮華経(法宝)=本門の本尊になる。つまり間接的に創価は一大秘法=本門の本尊と認めていることに気がづかないとは相当の莫迦だ。そしてさっきも言ったが、「本門の本尊」は「観心の本尊」なのだから「教相(御書)」に顕れていないのは当然だ。法華経に三大秘法という文言は書いてないのと同じ道理だ。そもそも御書に書いてあったら身延日蓮宗に「教相の本尊」だと突っ込まれるぞ(笑)。「御書ではなく「六巻抄」を根本とする氏の態度が浮き彫りになっているといえる。」池田の師匠、戸田会長は「教学は日寛上人の時代に帰れ」とよく言っていたと池田は指導している。つまり須田氏の態度は池田の弟子として正しい。とまぁ列挙していくとキリがないのでこの辺でやめるが、記事の締めくくりとして「須田氏の本の内容は氏自身の誤読や無理解、無認識から生じた論拠の乏しい主張に終始しており、その言動も、「いまだ得ざるを謂って得たりとなし」という増上慢の極みであり、破和合僧の所行と断じざるを得ない。」と須田氏を増上慢・破和合僧と非難している。『松野殿御返事』には「忘れても法華経を持つ者をば互いに毀るべからざるか」との大聖人の御金言がある。創価教学部と須田氏はまさしく互いに毀りあっていて双方が謗法になるだろう。もっとも創価自体が謗法なので須田氏の方にやや理があると思うが、それにしても公明党を支援しないと処分、SNS創価批判をすればスラップ訴訟、本部が一方的に押し付けた教学を批判したら仏敵認定。完全に創価本部によって恐怖支配されているのが今の創価学会である。こんな組織を池田大作が望んでいたかどうかは知らないが、こんな宗教団体に在籍している会員の気が知れない。須田氏もこれまでの宗門や日顕上人に対する誹謗中傷を懺悔して日蓮正宗の復帰して残り少ない人生を後生の為に使った方がいいと思うけどね。

 

■関連記事▶『創価学会教要綱の考察』・須田晴夫著 - 創価ダメだしブログ

創価学会の退会方法(静かに創価を去るために) - 創価ダメだしブログ

 

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