創価ダメだしブログ

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創価教学じゃない御書講義(2023年3月座談会御書・弥三郎殿御返事)

但偏に思い切るべし、今年の世間を鏡とせよ若干の人の死ぬるに今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり、此れこそ宇治川を渡せし所よ・是こそ勢多を渡せし所よ・名を揚るか名をくだすかなり

 

今回の御文は創価が選挙時に取り上げる定番の御文。前回は都議選のときに座談御書になったね。過去記事を末尾にリンクしておくからそちらも読んでね。今回の御文ですが奇しくも私の所属寺院の3月度拝読御書と全く同じ。だけど講義は全然違うけど。創価が講義すると「今こそ勝負の時、勝って創価学会の名を上げセンセイにお応えしよう」なんて話を選挙の度に当該御文を利用して会員を煽る。でも結果として現在に至るまで創価は「悪名」だけが上がっているという哀しい現証。以前も書いたけど本抄は法論=折伏に関する大聖人の御指南である。その御指南を選挙という俗世の話にすり替えるのは「摧尊入卑」も甚だしい。池田創価教学の根本は大聖人の御指南を愚弄した「摧尊入卑」教学にある。もっとも現在の学会活動家でまともに法論などできる人材は皆無だから本抄を学んだところで何の意味もない。というか戒壇大御本尊を捨てた創価に御書は無用の長物である。さて、毎回選挙の度にいまこそ人生の勝負の時のように当御文を引用するが公明党の勝ち負けなど人生にほぼ何の影響もない。人生でもっとも重要な勝負の時はいつか?それは実は「臨終の時」だ。確かに人生で良くも悪くも大きな転機となる勝負の時はあるだろう。だが「臨終の時」こそ全ての人間が避けて通れない人生で最重な勝負の時なのである。故に大聖人は、

◆人の寿命は無常なり。出づる気は入る気を待つことなし。風の前の露つゆ、なお譬たとえにあらず。かしこきも、はかなきも、老いたるも、若きも定め無き習いなり。されば先ず臨終の事を習うて後に他事を習うべし。(妙法尼御前御返事)

と御指南されている。臨終とは次の生への因となる時であるから人生最後の最大の「勝負の時」だ。その臨終の時に末法下種三宝の体(御本仏)である戒壇大御本尊を思い浮かべならら唱題できるかどうか?そこが成仏・不成仏の勝負の分かれ目となる。

提婆達多釈尊の御身に血をいだししかども臨終の時には南無と唱えたりき、仏とだに申したりしかば地獄には堕つべからざりしを業ふかくして但南無とのみとなへて仏とはいはず、今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも南無計りにてやあらんずらんふびんふびん。(撰時抄)

創価民諸氏は上記の『撰時抄』の御文を噛め給え。今際の間際にいくら唱題をしたとしても、心が「南無創価学会」「南無池田大作」では無間地獄へ堕ちるのである。「南無仏」でなければ題目は意味はないというのは大聖人の御妙判だ。いくら池田創価が好きだろうと創価も池田も仏ではない。むしろ御本仏・戒壇大御本尊を捨てた謗法者である。「生涯、学会員として幸せだった」それならそれでもいいが死後には創価も池田もない。謗法の創価員を待っているのは地獄の獄卒である。そうならないために創価員にとっての人生勝負の時はまさに「いま」なのである。ただ思い切って創価を退会し創価の謗法を言い切ることこそが当御文の御指南に一致する行動なのである。【所領を惜み妻子を顧りみ又人を憑みて】謗法の創価に留まっていては自身は無間地獄に堕ち、妻子・眷属までも不幸の道ずれにするような愚行である。この人生勝負の時を間違うことなく思い切って創価を退会しようではないか。心配することは何もない。池田創価がなくても十分生きていけるし何よりも安楽な臨終を迎えることができるのだから。

■過去記事はこちら▶

創価教学じゃない御書講義(29年度6月座談会御書弥三郎殿御返事) - 創価ダメだしブログ

創価学会の退会方法(静かに創価を去るために) - 創価ダメだしブログ

 

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