但偏に思い切るべし、今年の世間を鏡とせよ
若干の人の死ぬるに今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり、
此れこそ宇治川を渡せし所よ是こそ勢多を渡せし所よ名を揚るか名をくだすかなり
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今月の御書は「弥三郎殿御返事」
選挙になると度々引用される箇所ですな。
都議選真っ盛りの6月には持って来いの御書です。
本部も幹部が選挙の事を指導しやすいように考えているんだね~。
この前文に
◆所領を惜み妻子を顧りみ又人を憑みてあやぶむ事無かれ
とあるがここまで入れるとちょっとあざといと思ったのかね?
でも、ここまで入れてくれた方がやりやすいんだけどね。
「さぁいよいよ首都決戦の時。今こそ何も顧みず思い切り闘いきって
この法戦に勝利し我らが創価の名を満天下に轟かせようではないか!」
ってこんな感じですか?(笑)
よく聞くとバカみたいなんだけど
好きだからなぁこういう感じが。
体育会系の脳みそ筋肉君の男子部は大喜びですね。
また普段世間では名を上げるどころか
うだつも上がらない壮年部もちょっとやる気が出るかも?
この御書は「法論」に望む信徒へのご指導です。
「法論」とは「法の正邪」を決するまさに「法戦」
まぁ今どきの学会員は「法論」のルールすら守れないので「戦い」にならないが
大聖人の弟子として「法論」こそが「法戦」です。
創価は勝手に拡大解釈して
選挙を法戦なんて勝手にぶっこいているが
公明党支援活動に法の正邪なんて関係ないでしょ(笑)
そもそも公明党が勝ったからと言って名があがるわけでもなく
公明党が負けたらといって汚名を着るわけでもない。
なのに、大袈裟にこの御文を選挙の度に引用するのは滑稽過ぎる。
さて、「名を上げる」とはどういうことなのだろうか?
◆法華宗の四条金吾四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ、あしき名さへ流す況やよき名をや何に況や法華経ゆへの名をや(四条金吾殿御返事)
とあるように法華経故の名を上げるということだろう。
言い換えれば大聖人の弟子としての名である。
大作センセの弟子とて・・・というのでは
少なくても法華経故の名を上げたことにならない。
もちろん、大作センセがしてきた戸田先生の弟子として・・というのも違う。
そもそも今世娑婆世界での名声のことなど大聖人はなんとも思っていなだろう。
◆名聞名利は今生のかざり我慢偏執は後生のほだしなり(持妙法華問答抄)
もちろん、今世で勝利の現証を示すことも大切である。
それは、そのことによって大聖人の仏法の正義を証明できるからだ。
それもまた「大聖人の弟子」とて名を上げることに通じる。
そして、我らが「大聖人の弟子」として名を上げたことが活かされるのは
今世ではなく死後・来世のときだ
◆中有の道にいかなる事もいできたり候はば日蓮がでしなりとなのらせ給へ、わずかの日本国なれどもさがみ殿のうちのものと申すをばさうなくおそるる事候、日蓮は日本第一のふたうの法師ただし法華経を信じ候事は一閻浮提第一の聖人なり、其の名は十方の浄土にきこえぬ、定めて天地もしりぬらん日蓮が弟子となのらせ給はばいかなる悪鬼なりともよもしらぬよしは申さじとおぼすべし(妙心尼御前御返事)
との御文の通り、大聖人の名前は十法界にとどろいている。
その弟子である。と言えば、悪鬼は恐れ諸仏は讃嘆する。
知らない土地でヤンキーに絡まれた時に
その地元で名の通った先輩の名前を出して
「〇〇さんの後輩です」というと
急にヤンキーがやさしくしてくれる
といった具合だ。
ただし、肝心の〇〇先輩に
「オマエなんて知らないよ」と言われてしまうと
もう、ボコられてオシマイある。
大聖人仏法も同じで、「いくら弟子だ」と名乗っても
それが「ウソ」ならば通用しない。
◆日蓮が弟子となのるとも日蓮が判を持ざらん者をば御用いあるべからず(一谷入道御書)
◆二心ましまし人の聞にはばかりなんどだにも候はばよも日蓮が弟子と申すとも御用ゐ候はじ後にうらみさせ給うな(南条兵衛七郎殿御書)
日蓮が判を持っていない。というのは大御本尊を捨ててしまう事である。
二心というのは、大御本尊も他の御本尊も全く同じと思う事である。
つまり創価の信心を続けることは
「大聖人の弟子」と名乗っても通用しない。というだ。
地獄の悪鬼に見破れボコボコにされるのは必定である。
「大聖人の弟子」として名を上げるには
今世で正しく大御本尊を信じ
大聖人の弟子として生ききる以外にない。
謗法と化した創価の片棒を担いでいる活動家諸氏にとって
まさに今が、宇治川の戦いの最中である。
いまここで創価の謗法に反旗を翻し大聖人の弟子としての名を上げるか?
創価の謗法に味方し、仏敵として名を下すか?
ここで魔に誑かされ敗北し死後に後悔しても遅い。
「後にうらみさせ給うな」と大聖人も言われている。
大聖人の弟子であろうとするならば
今日から、創価の邪義を捨て大御本尊の元に戻る以外に道はない。
よくよく思案すべきだと思う。
また、大御本尊を信じる我々は
今世のうちに大いに名を上げ
悪鬼も恐れて近寄らないような境涯にしていきたいものだ。