創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

御講拝読御書研鑽(2022年8月・妙一尼御前御返事)

夫信心と申すは別にこれなく候、妻のをとこをおしむが如くをとこの妻に命をすつるが如く、親の子をすてざるが如く子の母にはなれざるが如くに、法華経釈迦多宝十方の諸仏菩薩諸天善神等に信を入れ奉りて南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを信心とは申し候なり、しかのみならず正直捨方便不受余経一偈の経文を女のかがみをすてざるが如く男の刀をさすが如く、すこしもすつる心なく案じ給うべく候

 

今月の御講拝読御書は『妙一尼御前御返事』です。妙一尼については鎌倉の女性信徒で弁阿闍梨日昭の縁者ともいわれていますが詳細は分かりません。わずかな所領をも信仰を理由に没収されてもなお大聖人への御供養を怠らなかった強信の信徒であったともいわれています。本抄は上記の御文が全文で非常に短い御書ですが大聖人仏法信仰の真髄を教えられた御指南だと思います。当御文と同様の御文に『上野殿御返事』の、

◆かつへて食をねがひ・渇して水をしたうがごとく・恋いて人を見たきがごとく・病にくすりをたのむがごとく、みめかたちよき人・べにしろいものをつくるがごとく・法華経には信心をいたさせ給へ、さなくしては後悔あるべし、云云。

の御文があります。妻子との接点が年々薄くなる私のとっては『上野殿御返事』の御文の方がピンときますが(笑)どちらも同じ内容の御指南で、要は信心とは特別な事でないということです。信仰と聞くと何か特別なことをしているように思い・思われがちです。信仰を恥かしく思ったり逆に信仰していることを鼻にかけ偉ぶったりするということはどちらも信仰を特別視するからです。そうではなく信仰というのは、人間として至極あたりまえの心情であり日常生活の一部であると大聖人は御指南されているのです。逆に言えば、「特別」「非日常」であると思う事や行為は大聖人の仏法ではなく、また信仰する自分を良くも悪く特別視するのは信徒してまだまだ半人前といえるでしょう。例えば、創価の「選挙活動」や「新聞啓蒙」は非日常であり特別な行為です。そのような活動は信仰活動とは呼べません。非日常的な特別な活動だから創価員はできればやりたくないと思う。やりたくないと思うから「勇気」を出さないとできない。またやれば世間に嫌われそして嫌われることが正しい信心の証拠などと思い込む。こんな活動や捉え方は大聖人の信心とはいわないのです。本来の大聖人の仏法とは妻子や恋人を愛しく大切に思うのと同じように御本尊を自分のとってかけがえのない大切な存在だと思って勤行唱題をしていくことです。本文中の法華経釈迦多宝十方の諸仏菩薩諸天善神等】とは御本尊の事で御本尊の相貌を表していますが、この御本尊を自然に求めて唱題を上げることが「信心」なのです。といってもこれがなかなか難しい(笑)偉そうにこんなことを書いていますが私も日蓮正宗に移籍してようやく少しづつそれが分かって成長している途中です。ではどうしたら自然と御本尊に対して尊信・恋慕の念がわくのか?私の経験からするとやはり基本は給仕です。御本尊に給仕することにより徐々に御本尊に対する気持ちが変ってきます。また勤行の際の御観念文を読むことも重要だと思います。要するにきちんと化義を守り実践していくことによって御本尊を知ることができ好きになるのだと思います。「そんなの形だけ。形式だけ」と思う人もいるでしょうが、その「カタチ」「形式」こそが自分一念を変える重要な行動なのです。例えば、仕事の時にスーツやユニフォームに着替えると心が仕事モードに切り替わるのと同じことです。創価や顕正のように勝手に化義を簡略化したり不要であると切り捨てるような教団にいたら当御文の御指導にある様な信心をすることができず、いつまでたっても「戦いの信心」のままです。創価活動家時代に、「朝の戦いに勝つ」という指導を聞きました。要は早起きして朝の勤行をしっかりやれよ。ということなんですが、何かと戦わないと勤行できないというのでは信仰者の名折れですね。(笑)私も創価時代はそんな感じでしたがいまは自然と早起きになり気持ちよく朝の勤行をできるようになりました。また後半部分の正直捨方便不受余経一偈の経文を云々】とは言うまでもなく謗法厳禁の御指南ですが、広げて言えば自身の謗法だけではなく折伏を推奨する御指南でもあります。そして折伏もまた勤行唱題と同じで、いつも忘れずに自然とできるようになりなさいということです。御本尊に対しする尊信・恋慕の心があれば普通に自然と折伏ができます。私は猫好きなのですが、多くの猫好きはスマホの中の猫の画像を見せては普通に自慢しています。(笑)それと同じですね。自然に御本尊や大聖人の事を他の人に話せるくらいに好きになる。そのような一人前の信徒・信仰者になりたいと常々願っています。勇気を出さなければ語れないような正義は正義でない。戦わないとできないような信心は本当の信心ではない。信心には「勇気」も「戦い」も要らないのです。大聖人の信心に必要なのは一途に戒壇大御本尊を思い信じることだけです。

◆構て相構て心を翻へさず・一筋に信じ給ふならば・現世安穏・後生善処なるべし、恐恐謹言(上野殿御消息)

 

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