創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

富士門流の法難④(讃岐法難)

先日、北山の見学をしてきたので今回は江戸九箇の法難のひとつ『讃岐法難』について書きます。『讃岐法難』は北山の謀略によって大石寺門流である讃岐本門寺(高永山本門寺)が北山の末寺として約300年の長きに亘り北山の支配を受けてきた法難で、この法難で敬槙坊日精師と真鍋三郎左衛門が本寺の北山本門寺に背いた罪で入牢となり牢死しています。讃岐本門寺の詳しい歴史についてはいずれの機会に記事にしますが讃岐本門寺は正中2年(1325)に秋山泰忠の寄進により日興上人の本六の百貫坊日仙師が創建された古刹で日蓮正宗三本山のひとつです。秋山泰忠は正信の信徒でその子孫の精進で創建から100年足らずの間に上徳坊・宝光坊・中之坊・上ノ坊が創建され四国の地において大寺院として発展します。『讃岐法難』の契機となったのは慶長17年(1612)に讃岐本門14代・大弐日円師が大石寺を参詣した折に日興上人の墓参で北山に立ち寄りその際に北山11代・日健(にちごん)より【法華寺久遠院日円上人】と記した本尊を受け取ったことが始まりです。【本門寺】とせずに【法華寺】と記したところに北山・日健の奸計が見られます。江戸時代においては過去にも記事に書いたように幕府の宗教政策である寺院法度により各宗派の本寺・末寺の関係が強化さてれていて、本寺の末寺に対する権限は強大でした。当時の讃岐本門寺は長い戦乱で大石寺とは疎遠となっていて所属する宗派が明確に決まっていない所に北山が目を付けて讃岐本門寺を支配下に置くことを画策したのです。日健は「富士の作法を知ってもらうため」と称し円心坊という僧を讃岐本門寺に送り込みます。当然、当時の北山はすでに謗法・異流儀となっていましたが遠く離れた讃岐本門寺では北山が異流儀となっていたことは知らずに受け入れました。そして正保3年(1646)に北山14代・日優は使僧の礼信坊に隠居寺を渡すように強要し一方的に讃岐本寺が北山の末寺であると通告してきました。その根拠が日円師に北山が与えた【法華寺久遠院日円上人】と記された本尊です。すなわち日円師が北山から上人号を与えられ本尊を授けられているので讃岐本門寺は北山の末寺であるというのです。これに対し讃岐本門寺16代・日教師は反駁をしますが北山は翌正保4年に寺社奉行に訴えを起こし慶安元年(1648)に日教師は北山・日優と奉行所で対決しますが結果的には北山側の主張が認められることになり讃岐本門寺は寺号を法華寺と改称されたうえ本山の格式を失い北山の末寺とされてしまいます。当然、讃岐の僧俗はこの決定を承服するはずもなく、ひたすら大石寺に参詣し御僧侶方も大石寺及びその末寺において修学し北山に対し非服従を貫きました。そんな讃岐本門寺僧俗の大石寺復帰への願いは江戸常在寺で修学された敬槙坊日精師(日精上人とは別人)が帰山し中之坊の住職に就任するとともに再燃しやがて信徒の真鍋三郎左衛門に日因上人より御本尊が下付されることになったのですが脚夫の間違いで中之坊あての御本尊が北山側についていた西之坊の要玄院に渡ってしまい訴訟騒動になります。こうして北山21代・日要により日精師は讃岐本門寺を追放されてしまいます。日精師は公所において北山と対決しますが本山に背いた罪により真鍋三郎左衛門とともに入牢となりました。日精師は入牢に際して一つの箱を託し、「二三代歴たれば名僧あるべし其時此の箱を渡すべし」(富要集九巻)と遺言したと伝えられています。そして入牢後21日間の断食をもって北山になびいた者達への諌暁として真鍋三郎左衛門ともども牢死します。その後まさに三代を経た讃岐本門寺に、後の二十四代日遦師と保寿院日照師が出現し、日精師の残した箱を開け大石寺に伝わる秘書十余巻を被見した両師は大石寺への求道の念を起こし大石寺の法門を学ぶとともに讃岐本門寺の興隆に精進しました。讃岐本門寺の24代となった日遦師は日照師とともに、造仏・黒衣等の北山の宗掟を一掃して大石寺の正法に戻したのです。その結果、讃岐本門寺では再び全山挙げての反北山・大石寺復帰の機運が高まっていきました。慌てた北山はまたも権力をカサに出訴するという常套手段を何度も使いその都度、奉行所では慶応元年の判決をもって讃岐本門寺に対し北山への服従を命じます。讃岐本門寺では幕府の命令に対し表面上は、ある程度は北山の宗掟に従ったものの、肝心の本尊式は大聖人正意の曼荼羅御本尊を守り法衣についても諸色を避けるなど大石寺の法義を守り抜きました。そしてやがて徳川の封建体制が崩壊し明治時代になると讃岐本門寺僧俗の大石寺復帰運動はさらに盛り上がり、ついに昭和21年、宗教法人法の発令に伴って、本門寺は僧俗満場一致の決議によって北山から離脱し日蓮正宗への帰一を果たしたのです。この時、讃岐本門寺の僧俗は誰一人として日蓮正宗への復帰に反対する者はいませんでした。300余年にわたる北山からの支配を受けながらそれに靡くことなく日蓮大聖人の正法正義を脈々と受け継ぎついには富士の清流への復帰を果たした讃岐本門寺の僧俗の忍耐と正信には驚愕するとともに尊敬の念に堪えません。そして日興門流でありながら異流儀と化してしまった北山などの興門流各山は讃岐本門寺のように正信の僧俗が現れて富士の清流に戻って欲しいと願うばかりです。そして今生のうちに一度は讃岐本門寺に参詣したいと思う今日この頃です。

 

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