創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

富士門流の法難⑧(八戸法難)

八戸法難は江戸時代末期の弘化元年(1844)に仙台・仏眼寺の玄妙房日成師による八戸弘教によって惹起した法難です。日成師は天保13年(1842)に奥州弘教に為に長横町の阿部喜七宅に投宿されその滞在中に、喜七と娘婿・阿部豊作を教化し、さらにこの両名の折伏で、三崎清兵衛、三崎忠助、石橋大治郎、佐藤清助(桝屋恒佐)、城前(瀬戸屋)善吉等が大石寺信仰に帰依しました。翌年の天保14年に喜七等は大石寺に参詣し日英上人より御本尊と御影像を頂戴し、帰郷後には日成師の指導のもとに益々折伏の邁進し入信者も相当数に増えていきました。当然、折伏弘教が進んでいくほど周囲の反発も大きくなり悪口や誹謗といった不穏な空気も徐々に広がっていきました。そして喜七の入信3年後の弘化元年にいよいよ法難が振りかかってきます。発端は、三崎忠助に折伏された日蓮宗身延派の信者が什門派の本寿寺に怨嗟を訴えたところから始まります。本寿寺は喜七や清助等が所属していた寺院ですが、彼らの折伏で信徒が減少して苦々しく思っていたところに身延派信徒が駆け込んできたのですから、これ幸いと大石寺信徒の殲滅計画をたてます。本寿寺住職・慶孝院と身延信者は喜七や清助がキリシタンに似ている大石寺信仰をしていると藩主に讒訴します。そして弘化元年5月15日に捕り方が派遣され日成師を領外に追放しその後、喜七等主要メンバー7名を逮捕連行します。数か月にわたる苛酷な取り調べの後に9月22日に7名は入牢となります。1か月の入牢の刑期を終えて6人は赦免となりましたが喜七一人だけは所払い(領内追放)になります。しかし領内に残った他の信徒はそれに怯むことなく折伏に精進します。そんな奥州信徒の折伏弘教が進む中、嘉永5年(1852)には隣の南部藩・盛岡に藩主の外護を得て感恩寺が建立されています。その2年後の安政元年(1854)、八戸藩は死去した信真の後を継いだ9代藩主の信順(のぶゆき)が、実家である薩摩藩出入りの高野周助の努力によってついに大石寺に帰依するに至り同年8月に御本尊が下付されました。江戸末期とはいえ藩主の帰依は非常に稀なことです。そして、高野周助と江戸表の八戸藩南部屋敷の奥女中・喜佐野の藩主・信順への嘆願によって、安政2年(1855)に追放十年にして阿部喜七は赦免となり没収されていた御本尊と御影像は高野周助によって大石寺に返納されました。因みに阿部喜七は追放中に日承と名を改めています。その後、信順の発願によって文久元年(1861)10月16日についに大石寺末寺として玄中寺が八戸の地に建立されました。法難が惹起してから17年目の事でした。この折に日承師(阿部喜七)は住職着任まで留守居を務めたの後に関西方面に弘教し、大阪・蓮華寺の第10代住職となっています。また法難の当初に領外追放されて日成師はその後は、弘化度の法難に連座したり安政6年には石要問答で要法寺・智伝院日志(後の玉野日志)を論破するなどの活躍をしています。佐藤清助の長子・寿之助は函館に渡り函館教会(現在の正法寺)建立に際に発起人として尽力し、喜七追放時に娘のマツを養女とした城前(瀬戸屋)善吉は盛岡に移住し瀬戸物屋として大いに栄えたと伝わっています。なお、喜七等を迫害した、藩主・信真はその3年後に病に倒れ悶死し、慶孝院から賄賂を受け取り迫害を推進した、野中頼母・玉江三太夫・荒木彦右衛門もその後順次業病により悶死し子孫も絶滅したことが富要集には記されています。

 

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