創価ダメだしブログ

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富士門流の法難⑦(尾張法難)

文政5年(1882)に大石寺信徒・永瀬清十郎の名古屋弘教によって惹起した法難が『尾張法難』です。清十郎は元々は日蓮宗一致派信徒でしたが大石寺の正義をしり日量上人の俗弟子となった人です。文政5年より自信がかつて日蓮宗を布教した名古屋の地の縁故の家を訪ねて大石寺の教えの布教を始めました。名古屋においては後の名古屋信徒の中心となる高崎唯六の母を折伏しやがて名古屋の武士階級に正法が広がりました。また清十郎の弘教は農村地帯の北在(現在の小牧市周辺)にも広がり、小木村・船橋儀左衛門、寄木村・平松増右衛門、小牧村・岩田理蔵、外山村・木全右京等が帰伏し教線が拡大します。当時は尾張一帯に大石寺の末寺はなく一致派日蓮宗が盛んでしたが岩田理蔵は一致派の法義を研鑽する中で大石寺の法門に傾倒し自主的に改宗しました。平松増右衛門は北在きっての一致派の論客でしたが清十郎との公開法論で破折され大石寺に改宗します。こうして正法に帰伏した北在の信徒はそれぞれ寄り合って多くの講を結成していきます。一方で名古屋では高崎唯六を中心に本因妙講が結成され尾張各地で日蓮宗各派との法論が展開されます。文政8年には一致派僧侶・本用院日就等と高崎唯六等本因妙講との間に所謂『尾張問答』が行われ本因妙講側の大勝利となりましたが、これに怨嫉を抱いた日蓮宗側は尾張大石寺の末寺が無い事を利用して大石寺信徒の殲滅を企てます。日亨上人は『尾張法難』を4期に区分していますのでそれに準じて書きます。【文政度法難】まず文政8年に御講に参列していた木全右京を複数の暴徒に襲わせ、文政9年には一致派僧侶と奉行所の役人が右京宅で乱暴を働き御本尊を奪い取ります。この状況に尾張信徒たちは下付いただいた御本尊を総本山にお預かりいただき御護りしました。(その後木全右京は大石寺御登山の折に日量上人より再び御本尊を下賜されました)【天保度法難】その後、状況が好転してきたかに見えましたが天保8年(1837)7月28日に平松増右衛門が役人2名により寺社奉行に連行され8月5日まで拘留されます。このような弾圧が天保8年から翌年まで断続的に行われました。【嘉永度法難】この嘉永度が『尾張法難』の絶頂期で嘉永元年(1848)には木全右京が拘留され同時に理蔵・土屋善之右衛門等も次々と拘禁さて厳しい取り調べを受け、善之右衛門は無宿者の吟味場で半死半生の責めを受け働けない身体になり、右京・理蔵も自由の利かない身体になりました。このような理不尽な対処は日蓮宗側が役人に賄賂などを贈り過酷な取り調べをするように図ったからです。捕縛を逃れた増右衛門達信徒が赦免運動に動き善之右衛門・右京・理蔵たちは釈放されますが今度はその増右衛門が捕縛され2日間厳しい取り調べを受けます。この段になり奉行所大石寺信徒を力ずくで日蓮宗に改宗されるのは無理だと判断し、日蓮宗側には法門によって大石寺信徒を教化するように命じました。この命令によって行われたのが『法華寺問答』で、日蓮宗側は一致派・勝劣派・身延・池上など七箇寺が野合し、大石寺信徒の増右衛門・理蔵・左京と3回にわたり名古屋・法華寺で法論します。結果は全3回とも大石寺信徒側の勝利となりましたが、その結果高崎唯六等が奉行所の取り調べを受け。嘉永4年にはついに尾張藩により大石寺信仰禁止の藩命が出され嘉永6年に増右衛門が追放となり嘉永度の法難は終息します。【安政度法難】この頃になると永瀬清十郎等の先駆者が相次いで逝去しますが、安政元年(1854)に木全右京の子息・左京が日蓮宗僧侶を法論で打ち負かすと左京は安政5年まで本遠寺に拘留され改宗を強要されますがそれに従わなかった左京は追放され無宿人となります。また安政4年には清十郎と兄の彦七・善之右衛門が切支丹であると清十郎の長兄から誣告をされ入牢となります。このように断続的に法難は続きその渦中で追放や死に至る者もでました。それでも尾張の信徒は強盛な信心を貫き伝え、やがて徳川幕府が崩壊すると明治9年に政令により信教の自由が確立され晴れて大石寺信仰に励むことが出来るようになったのです。これに伴って興道寺、妙道寺が更に信徒一同の発眼により小牧に小木村説教所(後の妙経寺)が設立されました。

 

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