創価ダメだしブログ

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富士門流の法難⑩(金沢法難)

金沢法難は日亨上人が富要集において『長』と記したように享保8年(1723)より江戸幕府崩壊までの約100年間の長期間に亘る法難です。領内に末寺が無い事から国禁(藩内における信仰の禁止)となり、その結果、閉門・閉戸・入牢・扶持離れ等の弾圧が続きましたが藩内には陸続と法華講中に結成され、池田宗信・加藤三右衛門・西田丈右衛門・竹内八右衛門・中村小兵衛などの強信者を輩出し、ついには金沢の地より37世日琫上人・47世日珠上人が御登座されました。金沢信徒に下賜された御本尊は350幅余り、歴代上人の御消息文は現存するだけも100通に達しています。そもそも加賀の国に大聖人の仏法が広まったのは5代藩主・前田綱紀が当時加賀藩上屋敷に近い常在寺で日精上人説法を聞き感銘を受けたからと言われます。綱紀自身は入信に至りませんでしたが(内得信仰をしていたという説もある)、綱紀の勧めで側近たちが常在寺に参詣するようになりそれが国許にも広がっていったようです。宝永元年(1704)に大石寺に建立された六万塔を見ると当時すでに加州(金沢)信徒は江戸・京都の信徒と比類されるほど成長したと思われます。しかし、享保8年になると6代藩主吉徳の時代なると綱紀時代とは打って変わり法難の兆しが現れます。藩の指南番が大石寺信仰に改宗したことが表沙汰となり、大石寺についての照会を受けた身延派・妙成寺による悪意のある回答(禁制の不受不施派大石寺信仰を隠れ蓑にしていると報告し加賀の信徒をこの一派の様に印象付けた)がなされた。そんな中、享保11年に藩内の日蓮宗八品派・慈雲寺の青年僧侶・了妙が改宗し藩内に大きな波紋を呼びました。江戸時代においては出家の身でありながら改宗することは許されることではありませんでした。これを機に享保11年12月に大石寺信仰は国禁になりました。大石寺においてはともかく国禁の解除と藩内に末寺建立願いを藩主が変わる度に提出しますがついに認可されることはありませんでした。その後、信徒弾圧は強まり一時期は多くの退転者を出しましたが加賀法華講衆には次第に不退の信心が根付き国禁の中で『法華本門大講』『本因妙講』『池田宗信講』『西田元信一結講』などの多くの講中が誕生し教線を伸ばしていきました。主な信徒には御本尊が下賜されましたが、当時下賜された有名な日因上人御書写の紺紙金泥御本尊(こんしこんでいほんぞん)は他見を避けるため折り畳み形式に表装されていて当時の取り締まりの厳しさを物語っています。加賀藩における大石寺信仰禁止の触れは、享保11年・元文5年(1740)・寛保2年(1742)・明和7年(1770)と4度に及んでいます。特に寛保2年以降はそれまでより更に厳しい弾圧が加えられ、多くの信徒が閉戸・入牢等の処罰を受け牢死する信徒もありました。これに対し日因上人は、無疑曰信に南無妙法蓮華経と唱へ奉る事尤も大切なり。又臨終の事は平生忘るべからず。別して一結講中異体同心未来までも相離れ申すまじく候。中に於て一人地獄に落入り候はば講中寄合て救い取るべし。一人成仏せば講中を手引きして霊山へ引導すべし。其の後、北国中の同行乃至日本国一閻浮提の一切衆生をも救い取るべく申し候。衆生無辺誓願度と申すはこれなり。】との有名な「十箇条法門」の御指南をされています。まさにこの御指南は我々法華講中にとっての永遠の指針といえます。弾圧は明和年間に最高潮となりました。西田丈右衛門は閉戸の刑に処せられたまま死去し家は断絶になり、竹内八右衛門は3度の追込み刑に処せられ牢死しています。この後しばらく弾圧は緩んだものの寛政年間になると最後のヤマ場を迎えました。寛政2年の藩の調査で大石寺信徒のあまりにも膨大な人数の多さに驚愕した藩が再び弾圧を加えてきたのです。調査では金沢法華講衆は1万2千にも達していましたがが藩として掌握している大石寺信徒はわずか11名。藩はこれ機に信徒全員のあぶり出しを画策し中心者の中村小兵衛を捕縛して拷問にかけましたが中村小兵衛は最後まで口を割ることなく藩は何も得ることができないまま取り調べを終えました。その後時代が下り天保10年(1839)には加賀藩支藩である大聖寺藩の藩主婦人である勇姫が入信することになりました。また『金沢法難』といえば【抜け参り】があまりにも有名ですが、この【抜け参り】は弾圧の緩んだ天保年間に行われたと記録されています。【抜け参り】というのは参勤交代の道中に(東海道を通るルートの時)参勤交代の列をこっそり抜け出して大石寺に参詣して再び参勤交代の列に戻るという強行軍の総本山参詣です。さて法難は江戸幕府崩壊とともに国禁は説かれ終焉を迎えました。しかし明治政府もまた新寺院の建立を禁止していましたので大石寺が近隣の妙喜寺を移転復興させ金沢の地に初の正宗寺院の妙喜寺が誕生したのは明治12年の事になります。『金沢法難』の歴史で感じるのは金沢法華講衆の信心は、常に総本山とともに、法主上人とともにあったことがよくわかります。日因上人の時代に建立された五重塔の御供養においても、江戸から348両の御供養がされていますが、末寺の1箇寺もなかった金沢信徒からは317両2分という江戸信徒と遜色のない御供養がなされています。金沢信徒の多くが下級武士であったにも関わらずこれだけの御供養をしているのです。金沢法華講衆の不自惜身命の信心と総本山外護の精神は未来永劫の信徒の明鏡として語り継ぎ受け継ぐべき信心であると思う次第です。

 

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