創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

富士門流の法難⑥(伊那法難)

『伊那法難』は、天明4年(1784)、信州・伊那(現在の長野県伊那市)で城倉茂左衛門が中心に折伏弘教した結果惹起した法難です。茂左衛門の生まれた城倉家は元々は曹洞宗・常輪寺の檀家でしたが茂左衛門の祖父の代から内々に日蓮宗身延派・深妙寺に帰依するようになり父・伴蔵の代には帰依が深まり城倉家の人々は法華経読誦をするようになっていましたので茂左衛門は幼少時より日蓮大聖人を尊んでいましたが、茂左衛門は大聖人滅後にその門流が様々に分派しているがいずれが正しく大聖人の御真意を伝えるているのか?という疑念を持っていました。そこでそれを知るために宝暦13年・茂左衛門19歳の時に千箇寺詣に出ます。近隣の法華寺から身延山久遠寺・身延檀林をまわり富士大石寺に至り茂左衛門の求めていた答えに巡り合いました。即ち大石寺に伝わる種脱の法門と唯授一人血脈相承です。迷いの晴れた茂左衛門は日蓮宗を捨てて大石寺に帰依したのでした。こうして帰郷した茂左衛門は屋敷内に堂を建て御本尊を安置し『妙法山蓮光寺』という額を掲げ、ここを拠点とし折伏弘教を開始しました。当時の信州・伊那地方は天災が続いており人々は困窮していました。茂左衛門が大石寺で学んだ大聖人の仏法を説いて歩くとそれを聞いた人々は菩提寺から離れ茂左衛門の元に集うようになります。小出郷より始まった折伏弘教はやがて13km離れた高遠藩の城下町にも及びました。茂左衛門は謗法を徹底的に破折する折伏を開始してから20年が経過すると、曹洞宗の光久寺と常輪寺、日蓮宗の深妙寺の檀徒とほとんどが謗法寺への布施を断つようになり、その対抗として三箇寺は談合して、天明4年5月11日に茂左衛門と筆頭とする富士門徒を代官・秋山五郎右衛門に訴えました。その内容は【茂左衛門は妖術を使うキリシタン紛いの邪宗教である】【自分達に檀家が菩提寺(自分達)を無視して茂左衛門に法事を依頼している】というようなものでした。その訴えが代官より寺社奉行・荒波紋太夫に届くとすぐに茂左衛門らを捕縛する決定がされ訴えの翌日12日夕刻には与力・同心36名が小出郷を急襲し中心信徒の、茂左衛門・佐平治・藤右衛門を捕縛し3人ともそのまま高遠に連行され入牢となります。この時はこの3名以外にも小出郷で8名・隣村で2名が捕縛され、16日になると高遠城下・小出郷、更には入野谷郷・藤沢郷にも及んで、結果、入牢3名・手鎖14名という大騒動になりました。茂左衛門宅は家宅捜査もされています。その後、茂左衛門の取り調べが始めりましたが法門に暗い役人たちは困惑して日蓮宗身延派の遠照寺・弘妙寺の僧に吟味させ茂左衛門等の信仰が公儀認可の大石寺信仰であることが明らかになり拘束された信徒のほとんどは釈放されましたが、茂左衛門等3名の拘留は続き4か月が過ぎた9月になると、拍子木責め・水責めが三日三晩続くという過酷な吟味となりました。しかし茂左衛門はいかなる責めを受けてもひたすら唱題をし、ここに至って奉行所側は9月8日に。茂左衛門とその家人は追放欠所、阿波屋忠治は高遠町追払い蟄居と処断を下し沙汰止みにしました。(佐平治・藤右衛門については不明)また讒訴した側の三箇寺(常輪寺・光久寺・深妙寺)も閉門となりました。茂左衛門には五人の子供がいましたがそれぞれ固く信仰を持って、寛政10年(1799)には長女に常住御本尊が下付されています。茂左衛門は法難後20余年を経た文化5年(1808)に赦免となり小出郷に戻り娘の婚家の小出郷宮原の城倉家北隣に家を建てて移り住み、文化7年(1810)に66歳でその生涯を閉じました。茂左衛門の信仰は法難後も受け継がれ伊那の信徒に御本尊も下付されています。弘化2年には大石寺信仰への改宗を取りします藩令まだ出されるほど伊那の信徒の折伏弘教は盛んだったのです。そんな伊那信徒の大石寺への渇仰心はやがて寺院建立の強い願いとなり明治13年(1880)12月に伊那の地に『広布山信盛寺』が建立されたのは茂左衛門没後70年の事です。

 

▼一日「イチ押し」お願いします

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会 批判・告発へ
にほんブログ村

 


創価学会ランキング