創価ダメだしブログ

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法華講員のための顕正会破折の基礎知識③(天母山戒壇論)

顕正会の邪義として『国立戒壇論』と並んで挙げられるのが『天母山戒壇論』があり、この二つの邪義が顕正会の根幹となっている。【広宣流布の時の事の戒壇大石寺ではなく天母山に建立する】というのが顕正会の『天母山戒壇論』の邪義だ。当然、そのような文証は日興上人以下御歴代のお言葉には皆無である。この『天母山戒壇論』の初出は、左京日教師の『類聚翰集私』の「天母原に六万坊を立て、法華本門の戒壇を立つべきなり」の文で、その約80年後に要法寺・広蔵院日辰が『御書抄・報恩抄下』の中で、「富士山の西南に山あり。名をば天生山と号す。此の上において本門事の本堂・御影堂を建立し云々」と述べているのが天母山戒壇論が生まれた経緯だ。要するに、『天母山戒壇論』は要法寺系が生み出した邪義の類で全く正宗の教義ではない。さて、顕正会が『天母山戒壇論』の唯一の文証としているのが、日興上人が書かれたとされる大石寺の大坊棟札の裏書の「天母原に三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」の一文だけだ。しかし、この大坊棟札は既に贋作であることは明白となっている。贋作の理由を要約すると、1.丑寅勤行の記述が「日興跡条々事」よりも約40年前にあるのはおかしい。2.日興の【興】の字が日興上人の正筆と自体が違う。3.日興日目という文句はおかしい。4.棟札が大石寺完成より約半年後の年号になっている。5.時光殿の修理太夫の名称がおかしい。6.鎌倉時代に「寄附」という言葉を使用するはおかしい。7.「大行」の法名を使う時期が早すぎる。8.全体の字体が棟札よりも7年後に成立した「御家流」の字体である。等々で、大坊棟札が贋作であることは証明されている。また日亨上人は『富士日興上人詳伝』で、「この日教の意を見るべし。天台の円融の法義におぼれ(中略)まじめな後人を誤らすこと大なり。ことに空談にもせよ、天母原の寸地に、いかに重畳しても、摩天楼にしても、六万の坊舎が建設せらるべきや」と天母原の狭小地に6万の堂宇を建てることは不可能であると言われている。また、日興上人は『富士一跡門徒の存知事』で大石ヶ原を「四神相応の勝地なり」と言われ、日亨上人が『富士日興上人詳伝』のなかで「まさに四神相応に近からずや。富士四山(重須、下条、小泉、西山)の地勢は、大いにこれに遠きにあらずや。おのおの、その開基時代相地の用意・不用意、深く味わうべきことで、ことに我れら開山日興上人・開基旦那南条時光の、遠き未来を鑑みての十二分の御用意に感謝すべきである」詳しく解説されている。果たして天母原が大石ヶ原を凌ぐほどの四神相応の勝地であり得ないことは明白である。いずれにしても、浅井顕正会の主張する『天母山戒壇論』の邪義は唯一の文証である大坊棟札が贋作・偽作である上に、その伝説の発端は要法寺から富士に帰伏した日教師の誤謬とそれに基づいた広蔵院日辰によって作られた義であり全く大石寺の義ではない。また、顕正会が良く出す文証として日寛上人の『報恩抄文段』の「事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」があるが、「天原」と「天山」とではその意味合いが違うし、

広宣流布の日は、当山をもって多宝富士大日蓮華山本門寺と号す可し(日因上人)

◆今は是れ多宝富士大日蓮華山大石寺広宣流布の時には本門寺と号す。此の寺則霊山浄土也。(中略)広宣流布の時は天子より富士山のふもと天母ヶ原に本門戒壇建立ある(日宣上人)

◆この広大なる地辺こそ、すなわち四神相応の大石ヶ原の大構想である。天生原こそ、ここにありと信じてこそ、真実の我々の心である(日亨上人)

等の御歴代の御指南にある通り、天生原とは大石ヶ原を指し、事相の戒壇の建立は大石寺内であるとこは明白である。その他にも顕正会が『天母山戒壇論』を主張する時には精師や応師等の切文を出して来るがこれらに対する反論は今記事では割愛します。そのような枝葉の部分で顕正会の能書きに付き合うことはありません。『天母山戒壇論』に対しては、大坊棟札が贋作であること(逆に真筆であることを証明するように要求する)を述べれば文証の無いことを証明できるし、また道理として戒壇建立地に対する重要事項を文書でも口伝でも残していないことは理証に反する。さらに、天母山が四神相応の地でもなく偏狭な地であるという現証を示せば破折には十二分です。

大坊棟札の文(日興上人詳伝)

四神相応の地(日興上人詳伝)

 

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