今回から末法相応抄第4の学習に入ります。六巻抄のここまでの前半の3抄(三重秘伝抄・文底秘沈抄 ・依義判文抄)は、化法に関する法門のご指南でしたが、後半の3抄は化義に関する法門のご指南になります。そしてこの『末法相応抄』は、要法寺の広蔵院日辰(にっしん)の2大邪義である「一部読誦」(法華経一部28品を読誦すること)と造仏を破折されている”抄”になります。本題に入る前に要法寺・日辰について少し説明すると、まず要法寺はその起源は日尊師の開いた上行院にあります。日尊師といえば落ち葉を見ていて日興上人から破門されその後奮起し諸国で折伏をし、日目上人の天奏の意思を引き継ぎ後醍醐天皇に天奏を行うというある意味で日興門流そのものの人です。その日尊師が天奏の功績で寺地をもらいそこで開いたのが上行院です。日尊師死後、日印が上行院を受け継ぎ、もう一人の弟子だった日大が上行院とは別に住本寺を開き二派に分かれましたが天文法華の乱で上行院・住本寺は焼失し、その後に日辰がこの2ケ寺を統合して建立されたのが要法寺で初代住職が日辰です。日尊師の流れですから元々は日興門流なのですが、日辰が「一部読誦」「造仏」を主張し日興門流から外れていきます。しかし日興門流の流れを酌んでいますから大石寺との通用の有った時代もあり、大石寺の15世日昌上人から23世日啓上人までの9代の上人はいずれも要法寺出身です。これをもって創価では「法主を含めた能化の者たちが要法寺系によって占められているのだから、邪義である要法寺の教学の影響はかなりのものだったと思われる」などと見て来たような嘘をいい、大石寺が日辰の邪義に染まったいたのような印象操作を行い日精上人等を誹謗し、また日寛上人の教学を要法寺の邪義から守るために創作したの教学などと批判しています。しかし、これらの創価の主張は全てでっち上げの印象操作であることがこの「末法相応抄」の序文で明らかになっています。
◇春雨昏々として山院寂々たり、客有り談著述に逮ぶ。客の曰わく、永禄の初め洛陽の辰、造読論を述べ専ら当流を難ず、爾来百有六十年なり、而して後門葉の学者四に蔓り其の間一人も之れに酬いざるは何んぞや。
序文ではまず問者が日辰が造読論(造仏と一部読誦)を主張し大石寺門流を長い間批判してきているがその間に大石寺門流から日辰の邪義に反論・破折を加える人が誰もいないのはどういうことなのか?と質問しています。これに対し日寛上人は、
◇予謂えらく、当家の書生の彼の難を見ること闇中の礫の一も中ることを得ざるが如く、吾に於いて害無きが故に酬いざるか。
と答えています。要約すると、日辰の邪義など暗闇で小石を投げても誰にも当たらないように日興門下の僧俗になんの害も及ぼさないのでいちいち日辰の邪義などに反論する必要もない。ということです。いまの創価民の正宗・法華講に対する誹謗中傷なようなものですね(笑)つまり創価の言う「邪義である要法寺の教学の影響はかなりのものだった」などという事実は一切なかったと日寛上人が証言されているわけです。もちろん日精上人に関しても日寛上人と同時代の方ですから創価の言うような謗法など日精上人にも宗門にもなかったということです。以前鯛焼き支部長が必死になって妄想を働かせて日精上人を誹謗していましたが日寛上人によって彼のような創価民の妄想とデッチ上げは完全にウソだという事が明らかになってます。この末法相応抄の序文は日精上人等を誹謗する創価民にとってカウンターとして使えますので是非覚えていてください。さて大石寺・日興門流内に日辰の邪義など微塵もないことを前提に日寛上人は
◇客の曰わく、設い中らずと雖も而も亦遠からず、恐らくは後生の中に惑いを生ずる者無きに非ざらんことを、那んぞ之れを詳らかにして幼稚の資と為さざるや。二三子も亦復辞を同じうす。予左右を顧みて欣々然たり。聿に所立の意を示して以って一両の難を遮す
未来の僧俗の中に日辰の邪義に惑わされる者も出てくるかもしれないので日辰の「造読」二つの邪義(一両の難)を破折しておくと言い「末法相応抄」を顕します。上は一部読誦論を下は造仏論をそれぞれ破折しているのがこの「末法相応抄」です。
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