創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

気楽に語ろう創価学会非活ブログの不勉強を指摘する。(本尊の奉安様式の不統一について)

先日、当ブログの読者の方と一献傾けた時に、「気楽に語ろう創価学会非活ブログ」の話題が出た。気楽非活氏はもとも「対話ブログ」のシンパで「対話ブログ」の後を継いだかのようなカタチで「気楽非活ブログ」でシニフィエ氏同様に創価日蓮正宗を批判する記事を書いている。また気軽非活氏は現在では創価を退会し、念仏やら龍樹やら身延派に興味を持っている「趣味は仏教の自由研究」という感じの無信仰者のようらしい。ブログでは彼の尊敬するシニフィエ氏よりも教学ポイことが書いてあるので私もたまに読んでいる。感想としては教学というより軽学(きょうがく)といったところだが「対話ブログ」なきあと創価退会を促すツールとして悪くはないと思っている。ただあまりにも正宗批判が的外れで彼の主張するところが日蓮正宗の法門法義と誤解されても迷惑なので反論しておくことにした。さて、「気軽非活ブログ」最新記事は「本尊の奉安様式の不統一」(2022年5月4日)というタイトルで正宗の本尊奉安式を挙げて批判をしている。いわく(太字は気楽非活ブログより引用)

日蓮正宗は、宗創紛争以降もそのような奉安様式の雑乱を無理に統一しようとせず、教義と形式の不統一を放任してきた結果が、現在の状態なのです。

大石寺宗門は、まず「一幅式」「一幅一体式」「一幅二体式」をきちんと教義的に統一し、かつて信徒にはなぜ「一幅一体式」で本尊を安置させていたのか、教義上の説明をする必要があるでしょう。

という内容である。氏は以前にも

●「なんで大石寺はこの3種類の奉安形式を統一するってことをしないのでしょうね。」「つまり教義に一貫性がないんです」、「だいたい大石寺の敷地内だけでも御影堂と客殿とで奉安形式が異なっているわけでしょう?「一体どっちなのさ?」ってツッコまれたら何て答えるんですかね」

と今回と同じような事を言っている。今回、気楽非活氏が引用した文献は、戦後の新興宗教団体・本化妙宗連盟の創立者国柱会出身の山川智応と京都要法寺の柳澤宏道のどちらも身延日蓮宗系の反正宗の人物の書籍で、創価民が池田大作の本を文証に使っているのと同じ公正さに欠けた我田引水的な引用だ。これは両氏の文献を引用することで客観的な意見だと読者に思わせる(錯誤させる)作為的な引用であると断じておく。常日頃から文献至上主義を標榜とする気楽非活氏であるのだから一方的で偏った文献だけに頼らずもっと徹底してもらいたいと願う。さて、気軽非活氏の「本尊の奉安様式」に対する疑難は既に100年以上も前に要法寺・驥尾日守が「末法観心論」の中で書いていることで要法寺の柳澤氏の論説は驥尾日守の論説の二番煎じで、更に気楽非活氏の記事の疑難はその出涸らしみたいなものである。驥尾日守の『末法観心論』には、

■「もし今日において法本尊、人本尊、三宝式と言って、これを親(まのあた)り正観の実せば、本因妙の実義を失う物怪なり。人法二箇本尊と言い、三宝式という儀式は具騰本種の実理になきを、いかがせんや」

と気軽非活氏の疑難と同じ内容が書いてある。これに対し日応上人が『弁惑観心抄』でそれに弁駁を加えている。気楽非活氏は「一体どっちなのさ?」ってツッコまれたら何て答えるんですかね」と勝ち誇ったように言っているがその答えは既に100年前に回答済みなのである。日応上人はこの疑難に対しまず最初に、

末法下種三宝式の深義を知らざる僻案のみ。

と驥尾日守の浅学・軽学を指摘した後に、

曼荼羅一幅に三宝を具するは、すなわち合帰の事相にして、別体の三宝はすなわち妙法の曼荼羅より開発したる事相なり。故に、一体三宝も、その実体一にして、ただ開合の異なるのみ。譬えば、扇子の開きたると開かざるとは、その形容異なりといえども、その実体、毫も異なることなきが如し。しかるに、扇子本来の得能を知らしむるは、これを開き、もって動揺せしむるに如かず。今また、かくの如く下種の三宝の恩徳をして容易に知らしむるは、別体三宝の事相を示すに如くなし。

と明確に正宗の法門法義に照らして一体三宝と別体三宝についてご教示されている。すなわち一体三宝と別体三宝は開合の違いであって本尊義がふたつあるわけではないのである。即ち三宝一体の体を一体三宝式は曼荼羅本尊に合した相であり別体三宝は開いた相なのである。では、なぜ別体三宝として開発の相を示すのかと言えば上記の日応上人の御指南の閉じた扇子を見ただけでは扇子を何に使うか分からない人の為に扇子を開きその用途を示すという譬えにあるように、三宝一体の体である戒壇大御本尊への信徒の信心勧奨の意義がある。扇子を開こうと(別体三宝式)閉じていようと(一体三宝)どちらでも同じ三宝一体の体(本門の本尊)を表している。だから気楽非活氏の「奉安様式の雑乱」「教義と形式の不統一を放任してきた」「つまり教義に一貫性がないんです」などという批判は全く的外れで、実際に読んでるこちらが赤面するレベルの幼稚な批判と言える。そもそも気楽非活氏は身延の別勧請と正宗の御影を同レベルで語るくらい日蓮正宗の教義はほとんど何も知らないレベルの人だ。(彼のブログの読者は彼が正宗教義に精通していると思わされているだけ)。一知半解の門外漢が正宗を批判するのは自由だがこの程度の批判しかできないとは元広宣部として同じ釜の飯を食った私としては非常にガッカリする。もう少し富士門流・興門流の勉強をして、もう少し高レベルの批判をして欲しい。これじゃB級創価広宣部と同じだ。創価民ならばこのレベルでも十分通用するだろうが、正宗を批判するにはまだ不勉強。まぁ身延などのアンチ正宗の他宗の勉強して正宗を批判するヒマがあるなら、ご自身の好きな念仏を唱えて龍樹の中論を読んでいた方が趣味としてはいいのではないかと思う。というわけで少し長くなってしまったので客殿・御影堂の奉安式の意義については今度機会があれば書きます。

 

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