創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

選挙は信心じゃなくて選挙信仰。

俺が創価の活動を始めて最初の選挙は統一地方選挙参院選だった。最初はなんで選挙なんてやるのだろう?と思っていたが「選挙の戦いは信心の戦い」「選挙の戦いは功徳がある」と色々な幹部や活動家から言われ「そんなモノか」と思って活動をしていたが、何故「選挙が信心なのか?」「何故公明党を支援すると功徳があるのか?」どんなに考えても自分自身が納得できるような答えが見つからなかった。この「選挙の戦い」ってやつは、ほぼ毎年のように必ずやってくる。統一地方選に国政選挙。在住する地域に選挙がなくても、都議会や近隣の地域の選挙になれば派遣という形で選挙に関わる。しかもそれは数日・数週間単位ではなく数か月単位だ。極端な年だと1年間「選挙」しかしていない時もあった。納得感があまりない活動を「選挙は信心だ」とか「悪しき権力との闘争」なんて思い込んでやっていたわけだ。そんな俺もやがて幹部になり部員さんに「選挙は信心」という側の立場になったのだがそれでもやはり「選挙は信心」には心から納得できなった。そんなある日、俺は大作センセの人間革命の伸一青年の大阪の選挙戦の章を読んで「ああ選挙に勝つためには御書(教学)を皆で学び折伏をすることなんだな」と思ったわけだ。そこで自分が幹部という立場になって会合を開催する側になった時から選挙前には特に教学と折伏に力入れた。それならば自分自身「選挙は信心である」と納得できたし池田センセの指導にも反することはなかったからだ。だから俺は部員さんに「選挙は信心」「選挙は功徳がある」とは一度も言ったことはない。「選挙は選挙。選挙そのものに功徳なんてあるわけね~だろ」といつも言っていた。そして「選挙が信心になるかどうか?選挙を通して功徳がでるかどうか?は選挙後にかかっている」とも。選挙を通して自分の組織からどれだけ新しい活動家を輩出できるかは当然のこととして、選挙後にどれだけ折伏できるか・折伏したかが大切だといつも部員さんに言っていた。選挙後に折伏が進まなければその選挙活動は「信心ではなかった」という事だ。得票の多寡や候補者の当落に関わらず選挙後に折伏・弘教が進めば「勝利」であり進まなければ「敗北」だ。もちろん「敗北」をしたことは一度もなかったが。選挙のF取りだって「公明党の○○候補に投票をお願いします」とか「公明党の実績は云々」なんてことを語ったところで下種にもなにもならないし当然それだけでは折伏にもつながらない。だから俺たちはそういうF取りはやらなかった。最低でも選挙後に会って仏法の話をきいてもらう約束をF取りをしながら話していたわけだ。もちろんFをとった友人知人全員と選挙後に折伏の現場を持てたわけではないが、それでも選挙後の折伏を念頭に入れてF取りをしていた。だから俺たちにとって選挙のF取りなんて手段であって目的ではないし、従であって主ではなかった。内部の部員さん周りの時も同様だ。選挙後に部活に来てもらう。俺たちの支部の男子部の部活は御書を使った教学中心のプログラムになっていたから部活に来てくれれば大聖人の仏法を学べる仕組みになっていた。選挙の前も選挙の後も「御書」と「折伏」。それでようやく「選挙も信心の一部」と自分も含め皆も納得できるようになった。それだって「ようやく納得できるようになった」というだけの話で選挙なんてなくても折伏はできるから本当は選挙活動なんて不要なんだけど、創価活動において選挙戦は避けて通れないのであれば「選挙戦」を信心の活動にするためのギリギリの方法だった。ただそんなことをしている組織なんて昔も今の珍しいと思う(結果それが組織からの追放の遠因になるのだか)大抵ははただ公明党への投票依頼するだけの選挙のための選挙活動を「信心」と思い込んでいる創価民がほとんどだろう。本来は、「選挙」<「信心」だと思うが昔も今も創価活動民は「選挙」=「信心」だと勘違いしている気がする。「選挙は信心」ではなく創価民達は「選挙信仰」なのである。「選挙信仰」であるがゆえに、「選挙で功徳が出る。選挙で福運が積める。」などという何の根拠もないことを言えるし、それを信じることができるのだろう。まだ「功徳がでる」くらいなら可愛いものだが「選挙は広宣流布」という指導に至っては寝言は死んでから言ってくれという気分だ。どうしても「選挙は広宣流布」ということにしたいなら、いっそ本尊を公明党のポスターにしたらどうだろうか?どうせ今の本尊もカラコピ掛け軸だし、むしろ公明党のポスターの方が今の創価本尊よりしっかりとした仕上がりで金もかかっている高級品じゃないだろうか。それならば「選挙は創価宗の広宣流布」ということになろう。昔、某支部長が「公明党のポスターを張らせてもらうのも広宣流布」と言っていたことを思い出して書いたのだが、選挙信仰している創価民にとって公明党のポスターを本尊にする案は悪くない案だと思うが、創価の本尊に決定権のある原田会長さん検討してくれないだろうか?3000円でまた販売して俺の取り分は売り上げの10%でいいぞ。良心的だろ?(笑)まぁ今の創価では何をしても「大聖人の信心」ではないから功徳は出ないのに「選挙は信心だ」と言われてもね。


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