だしまきさんから
>学会2世3世をバリ活時代と今ではどのように感じていましたか?
>幸運だね、みたいなことはよく言われていたのですがやはりそのようにお考えでしたか?
とのご質問をいただいたので
今日は、学会2世・3世の会員さんについて書いてみる。
俺の世代ではまだ3世というひとは少なく2世がほとんど。
いまではもう3世・4世といったところが青年部の主流かな?
俺が少年部の本責をしていたころの少年部たちの年代だろう。
学会員の家に生まれてくる子供たちを
「福子」なんて呼んで「生まれながら福運がある」
みたいな事をカツドウカさんたちは言うけど
「福子」というのは教学的に言うと
幸運(福運がある)という意味じゃない。
四条金吾女房御書の中に「安楽産福子」という言葉があるんだけど
これは法華経の法師功徳品の偈の中に書かれている言葉で
六根清浄の功徳の中の鼻根清浄について説かれている偈で
正宗の家に生まれてくる子供を「福子」といているわけではない。
なので正宗ではどうか知らないが
創価の中で使われている「福子」と言葉は
仏法的は使い方が間違っている。
ただし、師弟契約御書で引用されている、
◆経の文には「在在諸仏の土に常に師と倶に生れん」
という化城比喩品の説法を見ると
過去世に大聖人と縁をした(説法を聞いた)ことにより
今世でまた大聖人(大御本尊)の元に生まれてくるわけだから
福子として生まれてくるのは、
過去世の福運というのもまぁ頷ける(福子という言葉は適切じゃないが)
というわけで幸運といえば幸運なのかもしれないが
今の創価の家に生まれてしまうのは不運だ。
不運というよりも過去世に退転した者が今の創価の家に生まれてしまう。
仏法の道理から言えばそういうことになる。
さて教学的なことはさておいて、
俺の2世・3世の学会員さんに対する感想は
創価のカツドウカに限って言えば
「信心」を分かっていない人が多い。
というのが正直な感想だ。
これは別に今に始まったことじゃなく
俺自身が活動家時代から感じていた。
いわゆる「福子」の活動家の部員さんをたくさん見てきたし
いまでも付き合いのある学会2世・3世達もいるけど
確かに信心に対して純粋な人が多い。
御本尊を純粋に信じ
創価と学会員を純粋に信じ
そういった部分においては本当に純粋だ。
なんだけど、純粋な部分がどこかズレている。
その一番の部分は信心の基本というかなんというか
そういうところがズレている。
例えば「祈る」という行為があまりにも身近過ぎて
「祈る」というよりも「題目をあげる」
という行為になってしまっている人が多い。
「題目をあげることと祈ることは違う」
2世の部員さんによく話した。
また、学会2世の男子部時代の後輩にいわれたのは
俺が男子部時代に彼に言った言葉で一番衝撃的だったのが
「学会活動は信心じゃない」
という言葉だったそうだ。
彼の中では幼少の頃から
「学会活動こそ信心の基本」だという思いがあったらしく
俺に「そんなもの(ガッカイカツドウ)は信心の枝葉でしかない」
と言われたことを20年経った今でも覚えているらしい。
そういう意味で「信心が分かっていない」と感じる。
決してバカにしているわけじゃなくて
なんだろう。純粋過ぎて全てが受動的な印象だ。
だから、少し指導(って言葉は嫌いだが使わせてもらう)を変えると
みるみる変わっていく。
男子部時代にそれまで本流を決めたことない2世の部員さんが
ことごとく本流を決めたことがある。
それは純粋だったからだと今でも思う。
「祈ること」「大聖人仏法を語ること」
この二つを御書を通して話していくと
「内部以外に友人がいません」と言っていた部員さんが
あら不思議。次々と本流が決まる。のだ。
そこなんだよな。
2世とか3世とかの学会員さんと
初代(笑)の学会員の違いは。
福子として生まれてきた会員さんは
小さな時から「池田センセ」「創価学会」って言われてきて
創価や池田センセが言っていることが信心だと思っちゃっている。
それが信心の本質であり基本だと勘違いしちゃっている
勘違いというよりもそういう教育を受けてしまっている。
だから学会活動をやることが「信心」だと思い
池田センセを「師匠」と思うことが「信心」だと信じている。
そこが大きな間違い。
大聖人の御書のどこを見ても
選挙や聖教啓蒙を信心とは書いてないし
在家の一信者を師匠にせよ。とも書かれていない。
大聖人仏法の基本は、大御本尊を信じて勤行・唱題をすること。
この一言に尽きる。
それ以外のことは枝葉に過ぎない。
ましてやガッカイカツドウなんてものは御書に書いていない。
「ガッカイカツドウ」ではダメなんだ。
「大聖人の仏法の布教活動」でなくては意味はない。
「ガッカイカツドウ」というのは「広宣流布」のためにすることであって
それ自体は全くイミのない活動だ。
選挙も新聞啓蒙も部員さんまわりも、
最終的には広宣流布へつなげていくための準備でしかない。
そこに繋げないで忙しくガッカイカツドウをしていても
そんなカツドウは信心でもなんでもない。
よって功徳なんてない。
そこが理解できる2世・3世の人達は
折伏でも世間でも立派に結果を出す。
理解できない方々は創価の中でしか大きな顔をできない
ヘタレ幹部・バリカツの道へと進んでいく。
ましてや、いまの創価は大御本尊を捨ててしまっているのだから
ガッカイカツドウなんて百害あって一利なし。である。
因みに俺が活動家時代の2世3世の部員さんで
折伏を決めた部員さんは、今でもカツドウカやっているのは二人しかいない。
当時、折伏が決まらなかった2・3世の部員さんが
今やゾーン長・本部長をはじめ壮年部の要職についている。
不思議なモノだ。
話を戻すが、破門前に2世3世として生まれた来た人達は
最初に書いたように、過去世で大聖人の仏法を聞いた人たちである
生まれる前から大聖人に縁をしていた人たちである。
その功徳は正直俺のような今世で縁した人間とは比べ物にならないほど大きい。
俺はそう思っているし、そう感じている。
なのに、なぜ自らその功徳を捨てするのか?
創価に誑かされてなで三世の師匠である大聖人(大御本尊)を捨てるのか?
悪しきモノを師匠にしてなぜ善なる師匠を捨てるのか?
創価の家に生まれてきて、幸運か不幸かは本人次第だ。
創価という仏敵に打ち勝ち大聖人に信を貫けば
末法の法華経の行者として過去世の福運の何倍もの福運が積める。
そんなおいしい所(家)に生まれてこれるは幸運としかいいようがない。
でも逆に仏敵創価に負けて、大聖人を捨ててしまえば
いままでの修行の功徳は一切消え去り無間に落ちる
まさに乞眼の婆羅門でる。
そうした状況になってしまえば不幸だ。
野球で言えば9回裏2死満塁で打席が回ってきた。
そんなイメージだ。
仏敵の中(家)に一人生まれて来たこと。
これは大ピンチでもあり大チャンスでもあると思う。
一族郎党を成仏させるか、その逆か。
まさにその使命の大きさに耐えられるのは
過去世より大聖人の弟子である福子だけだ。
ってちょっと大げさか(笑)
でも、俺の周囲の2世・3世の学会員さんには
「いまこそ大聖人の弟子として仏敵に打ち勝て」
「いまこそ三世永遠の成仏の最後の戦いだ」
そう言いたいかな。