創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

ネットでは教学が全て

創価のブロガーの人達の特徴として、

アンチ系の人間対して、「題目をあげていない」「真剣に活動をしていない」「体験がない」などという奴が多い。

そして逆に自分は「こんなに題目をあげている」「こんなに活動している」「こんな体験がある」などと書く。

この手に何の意味もなければ何の価値もないということにいつまでたっても気が付かない。

何故、意味がないかと言えば誰も証明できないからである。

人間関係的に深いつきあいで個人的に知っている人間に対してならば

そうした体験やら何やらは一定の理解も得られるし、意味も持つだろうが

そうではない他人に対して創価ブロガーの「自称話」など意味がないだろう。

リアルにおいても、それほど親しくない幹部が「俺は何万遍題目をあげた」とか

「10時間唱題した」とかいった所で、それが本当かどうかは分からない。

ましてや、ネットの世界でそんな話をしたところで

10時間唱題をしている姿をライブ配信しないかぎりそれを証明できるはずはない。

もちろん、「私はこんなに頑張ってます」的なブログにいちゃもんを付ける気はない。

それが嘘でも本当でもそんなことには興味が無いからな。

ところが創価ブロガーは、そんな個人の活動を元に

「自分の信心が正しい」と主張し

或いは反創価の人間を批判するのである。

「信心がある」とか「ない」とかを、自己申告の体験で誤魔化そうとしているのである。

創価新報聖教新聞という「自己申告」メディアで正宗批判するのも同じロジックである。

そんな愚にも付かない事を自ブログで書いたり

他ブログのコメント欄に書き込んだりして悦に入ってるヤツが多すぎる。

個人体験など顔も知らない者同士がコンセンサスを得られるツールになりえない。

創価とアンチとがコンセンサスを得られるツールは御書以外にない。

要するに教学という事だ。

◆行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、

我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候(諸法実相抄)

とご聖訓にあるように、目に見えない信心を証明するのは

「行」と「学」以外にない。

しかしネットでは「行」を証明することは不可能である。

ならば「教学」以外に「信心」を証明する方法はないのである。

それ以外を元にして「創価は正しい」「宗門は間違っている」などといった所で

それは単なるプロバガンダにしかならない。

特に対論においては尚更で、教学以外で「創価の正義」など証明できないし

教学以外で「創価の正義」など証明しよとするのは

逆に「創価が間違っている」と言っているようなものなのである。

そう、ネットにおいては「創価を擁護」するのも

創価を批判」するのも教学が全てなのである。

にもかかわらず、創価ブロガーは「学」よりも「行」などと嘯くわけだ。

理事に立て分けるのであれば、一応の義では「教学」は「理」であり「行動」は「事」であろう。

(これとて敢えて立て分ければという意味だ)

しかし、その肝心な「事」=「実際の行動」をどうやって証明するのかね?

あいもからず「私を信じて」か?

おいおい、アンチが創価の言ってることを信じてくれると思っているのか?(笑)

いやアンチでなくても普通の人が聞いたら、オカルトか自慢話・与太話にしか聞こえない事を信じろと?

どう考えてもそれは無理な話だ。

俺はね、大聖人仏法の法門法義を話せない学会員には「信心」なんてない。と断言するよ。

大聖人仏法の法門法義を学ばない人間がどうやって他人を教化するのだ?

「私を信じて」なんていうのは「教化」とはいわないし

広宣流布」ともいわない。

また法門法義で批判をできないのなら「破折」とも言わない

そしてそれを「信心」とは言わないのである。

そんな「信心」とは別物の「学会活動」なるものをネットで晒し続けているわけだ。

それは却って創価学会と大作センセを貶めている行為でしかない。

個人のブログだから何を書こうとそりゃ自由だが

大聖人仏法と偽ったり、正宗を批判したりするのは

「詐欺」行為であり、「偽計」行為である。

どうしても、自分の信心やら創価の信心が正しい。とネットで主張したいのであれば

もう少し教学をお勉強するか

さもなければ、自分たちは日蓮とは無関係です。と明言することだ。

まぁ、創価教学じゃいくら勉強しても無駄だから

そうそうと、「池田教」です。と宣言する方をおススメするよ。


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