創価ダメだしブログ

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御講拝読御書研鑽(2023年9月・四条金吾殿御返事)

李広将軍と申せしつわものは、虎に母を食われて、虎に似たる石を射しかば、その矢、羽ぶくらまでせめぬ。後に石と見ては立つことなし。後には石虎将軍と申しき。貴辺もまたかくのごとく、敵はねらうらめども、法華経の御信心強盛なれば、大難もかねて消え候か。これにつけても能く能く御信心あるべし。

 

今月の御講御書は石虎将軍の故事を引用した大聖人の御指南の御文でした。石虎将軍の故事の詳細は省略しますがこの御文を読むと池田大作が、「大切なのは仇を討つ一念」といい「師匠(池田)の仇討ち」がいかにも信心の要点のように指導していたことを思い出します。大聖人は数々の迫害を受けてきましたが弟子檀那に向かって「私の仇をうて」などと御指南したことは一度もありません。また日蓮正宗の御僧侶が信者に「日顕上人の仇討ちをしよう」などという事も一切ないですよね。それは当然で因果を説く仏法において「仇討ち」「報復」という思想は無いのです。「仇討ち」という発想は因果に暗い外道の発想です。無関係な会員に自分の仇に報復させようとする池田は世法においても卑怯で小心者だと思いますが、それ以上に仏法に暗く愚かな指導者といえます。そんな池田に付き従う会員達もまた愚かで不幸です。さて自分の悩みや目標を真剣に祈れば必ず願いは叶うという指導を耳にした人も多いと思います。その指導を否定する気はないし自分の願いを必死に祈る事は大切な事だと思うし私自身も御本尊にすがるように助けを求めたことは何度もありますがこの指導はやや端折っています。「功徳が欲しいと祈るから功徳が出る」というのでは世間において「一念岩をも通す」「一念天に通ず」と言われているのと同じです。何度も言うように功徳とは、法力・仏力・信力・行力の四力が成就した結果なのです。「功徳が欲しい」と願う題目は「願力」であって「信力」ではありません。信力とはあくまでも御本尊を信じる力で自分の願いに真剣になる事はありません。「真剣に祈れば功徳が出る」という指導は、願力が高じてればやがてその願力が信力に転じるからです。逆に言えば信力に転じなければいくら真剣に題目を上げても願力のままで四力成就・四力冥合になりませんので願いは成就しないのです。また信力とは、朝晩の勤行唱題・折伏・登山や参詣・御供養・教学の研鑽・日々のお給仕などと必ず行力を伴います。そこに四力冥合し、ある時は顕益がやがて冥益が現れ大願成就の功徳となる。これが大聖人仏法なのです。日寛上人は、◇めんめん方々も修行の弓には妙法の矢をつかい、疑いない念力をもって信心のこぶしをかためきって放せば、たとい悪口は猛虎のようにたけくとも、煩悩は大盤石ばんじゃくより剛かたくとも、我が念力が通じないわけがないと信心決定して、少しの疑いもなく修行することが専一である。と御指南されています。我々、信徒の「一念」とは世間通途の「強い気持ち」「一途な心」という意味ではなく信力を基盤とした念力なのです。もちろん無理に折伏成就とか広宣流布を祈る必要もありません。心に思わない事を祈っても功徳は顕れませんし広宣流布と功徳をバーターしてはいけません。真剣で必死の心で自分の幸福を祈っていけばその願力は自然とそして必ず信力となりますから思ったことや願いを自由に好きなだけ祈ってください。信心が強盛になれば大難(大きな苦しみや悩み)も事前に消えて無くなると大聖人は言われています。私も早くそのようになりたいのですが只今、大難の最中です。でもこればかりは自分に原因があるのですから誰にも仇討ちを依頼できません。一人で信心の弓と矢で戦うのみです。

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