創価ダメだしブログ

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はすこさんからの質問へ(僧と俗の違いについて)

先日、はすこさんからいただいたご質問についての記事を書かせてもらいます。

ご質問の内容は、以下の僧と俗の違いについてです。

【僧宝について質問があります。凡夫同士で学ぶことになってしまう、たしかにそうだな、と思うのですが、では僧侶は他の普通の人たちより優れているのでしょうか?僧侶は悟った人のことをいうのでしょうか?もしそうだったら、なにをもって他の普通の人と区別ができるのでしょうか? 】

まず最初に、僧俗の関係について第9世日有上人は、化義抄で次のようにご指南されています。

◇貴賎道俗の差別なく、信心の人は妙法蓮華経なる故に何れも同等なり。然れども、竹に上下の節の有るがごとく、其の位をば乱せず、僧俗の礼儀有るべきか。信心の所は無作一仏・即身成仏なるが故に、道俗何にも全く不同有るべからず。

簡単に解説すると、僧侶も在家も、金持ちでも貧乏でも全く差別はなく同等です。

大聖人仏法において「悟る」とは「信じる」(大御本尊を受持する)ことなので

僧侶=悟った人でありません。

「信心の人」は妙法蓮華経の当体ですから僧俗の差別はありません。

しかし(然れども)竹に節があるように、僧俗の礼儀というもは存在します。

大聖人の御書には各所に「弟子檀那」という記述があります。

この場合、「弟子」というのは出家の僧侶であり「檀那」とは在家信者をいいます。

大聖人自ら「弟子」と「旦那」と言って「僧」と「俗」を分けていることが多々あります。

では大聖人は、僧俗に差別がある。と思っていたのでしょうか?

ご本仏である大聖人がそんな差別をするはずはありません。

これは差別ということでなく、「区別」をしているのです。

では「なにをもって他の普通の人と区別ができるのでしょうか?」といことになりますよね。

これは、僧と俗では護法の仕方が違う。ということです。

護法とは、大聖人の仏法を守り続けること。いわゆる「令法久住」です。

大聖人の仏法とはどうのように永遠に守られていくのか?

◆僧の恩をいはば仏宝法宝は必ず僧によりて住す、譬えば薪なければ火無く大地無ければ草木生ずべからず、仏法有りといへども僧有りて習伝へずんば正法像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず(四恩抄)

◆設い正法を持てる智者ありとも檀那なくんば争か弘まるべき(四条金吾釈迦仏供養事)

仏法法宝つまり人法一箇の大御本尊は必ず僧侶がいて伝わる。

大聖人仏法を習い伝える僧侶(僧宝)がいても、檀那がいなければ広まらない。

ざっくり言うと、僧は縦に「永遠」・俗は横に「無辺」に大聖人仏法を護法する。

という役割がそれぞれあるわけです。

僧も俗も「地涌の菩薩」としては平等ですが、その役割が違うということです。

◆当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)

折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し】 この部分は「化義の折伏」で「守護付属」といい在家の役割です。

【摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す】この部分は「法体の折伏」で「伝持付属」といい出家の役割です。

(ちなみにここでの「摂受」とは釈迦仏法の摂受でなく、折伏の中の摂受です)

つまり、在家は世間に仏法を広めることがその役割で

出家(僧侶)は、大聖人の仏法を正しく保ち伝えることが役割なのです。

会社に例えるならば、在家は「営業部」で出家は「商品管理部」といったところでしょうか。

「営業部」は、外で商品を売ってくるのが仕事であり

「商品管理部」は、内でその商品の品質を管理し維持していくのが仕事です。

そしてこの二つの部署は、どちらが「偉い」わけではありません。

営業は「いい商品」だから自信をもって販売することができる。

また、お客様は「いい商品」を実感するから支持してくれる。

支持され続けるためには正しい「商品管理」は不可欠である。

この営業と商品管理が協力しあえば、多くのお客様がずっと幸せになれる。

なので、営業も内勤も社長からもらうお給料は同じ(功徳は変わらない)といことです。

ですから、創価が「俺たちが広めってやった」などいい気になるのは大きな間違いなのです。

広めたのは事実ですが、広めることができたのは商品がよかったからであり

その品質を創価ができるずっと前から守ってきたのは宗門のご僧侶です。

そのようなご僧侶の力があったかこそ

創価の人々は広めることができ、

それによってお給料(功徳)をもらったのです。

さてそこで、一つの会社と見たときに

「営業」と「商品」どちらかを選ばないといけない。

となったらどちらを選択するか?

まともな経営者であれば「商品」の方を選択します。

なぜなら、「いい商品があればどんな営業マンでも売れるから」です。

確かに創価の営業マンの方々は優秀です。

二束三文のバッタモンを本物さながらに売ってくるのですから。

でもそれはお客様のためにはなりません。

なによりも、「ニセモノ」はいつかはお客様にバレて

やがて信用をなくし売れなくなります。

そうなれば会社は倒産です。

でも、「本物の商品」であれば強烈な営業マンがいなくても

必ず世間の支持を得て広まるものです。

宣伝もしないお店に行列ができるのは

提供されるモノが支持されるからです。

そしてその「本物の商品」を保ち続けるには

「商品管理部門」がしっかりしていなくはいけません。

またそうした「商品管理部門」の人々に

「感謝」する気持ちをもてるのが「一流の営業マンです」

「俺達が売って稼いできた。オマエ達は稼いで来ないくせに偉そうにするな」

そんな営業マンは、私が社長ならば会社に必要ありません。

話がそれてしまいましたが、

僧俗に上下の差別はありません。

日顕法主も含め宗門僧侶が「僧俗差別」をしたこともありません。

冒頭の日有上人のご指南に沿っているので「上下差別」なんてないのです。

あるのは、役割の違いだけです。

それに対して感謝の念を持つどころか

非難するようなことがあれば

それは、大聖人仏法を「令法久住」するどころか

全く反対のことをしていることになり

大聖人仏法を行じていることにならず

かえって謗法を犯している事になるのです。

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