皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が中程は信心もよはく僧をも恭敬せず供養をもなさず自慢して悪見をなす、これ恐るべし恐るべし、始より終りまで弥信心をいたすべしさなくして後悔やあらんずらん、譬えば鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日余り歩をはこびて今一日に成りて歩をさしをきては何として都の月をば詠め候べき
今年最後の御講御書は上記の「新池御書」の有名な一節です。この御文は特に説明も必要ないですよね。【僧をも恭敬せず供養をもなさず自慢して悪見をなす】まさにこの御文は池田創価・浅井顕正そのものズバリです。大聖人ご在世からこのような謗法の人々が存在したというこです。時代が変わろうが何だろうが謗法の人々のやることは同じなんですね。折角この信心を知って今世でまさに成仏できるはずだったのに歩みを止めてしまった。全てが無に帰したのが現在の池田創価民・浅井顕正民です。まるで乞眼のバラモンのようです。何故そんな風になってしまうのか?それはこの御文のすぐ後にかいてあります。曰く【何としても此の経の心をしれる僧に近づき弥法の道理を聴聞して信心の歩を運ぶべし】と。つまり自慢して悪見えお起こすのは此の経の心を知る僧から離れるからです。さて【此の経の心を知れる僧】とは誰を指すのかといえば、先ずは別しては日蓮大聖人です。日蓮大聖人とは即ち戒壇大御本尊です。また戒壇大御本尊からの法水を所持している御当代法主上人です。総じていえば戒壇大御本尊につながる自宅の正しい御本尊であり法主上人のお弟子である正宗のご僧侶方を「僧」といいます。これは三宝一体の義による解釈です。ですから「此の経の心を知る僧に近づく」というのは具体的にはどういうことなのかと言えば、先ずは日々の勤行唱題。そして所属寺院への参詣。なかでも毎月の御講は御僧侶から法話を聴聞するわけすからこの御文のご指南の通りの実践です。そして登山し戒壇大御本尊にお目通りし法主上人と唱題申し上げることも本御文を実践することになります。自宅での日々の勤行・菩提寺への参詣・大御本尊へのお目通り。この実践をすることによって自慢・悪見の謗法を防ぎ信心の歩を進めることができるのです。学会にも信心がおかしくなる人は勤行をちゃんとしなくなる。と言う指導があります。五座三座を捨て方便自我偈1座の懈怠勤行それすらまともにできない創価民もいるそうです。池田センセに至っては会長職時代から0分勤行。自慢・悪見の謗法者になるのもご聖訓に照らして当然の結果だと思います。そもそも僧侶不要論・僧宝否定の創価民は今回の御文を真っ向否定している師敵対であることは間違いない。そして不成仏も間違いないのです。我々法華講員はそうした創価や顕正の面々を反面教師として信心の歩みを進め寂光の都の月を詠めたいですね。そんなわけで明日は年内最後の登山に行ってきます。