やはりというなんというか、鯛焼き君はせっかく当ブログにご招待したのにどうやら直接対話はしたくないようですな。
「こんな人とは対話はできない」っていうことなんでしょうけど、それってシニフィエさんが鯛焼き君にとった態度と同じですね。
シニフィエさんにされたときは文句言っていたのに、自分は「対論拒否」ですかぁ~。
だったら何もこのブログを読まなきゃいいのにわざわざ読みに来た挙句、
よほど私の記事が癪に触ったのか自ブログで半べそかいてます(笑)
で、言っていることは私の人間性がどうのこうのって全く議論の趣旨とも
仏法の趣旨とも関係ない罵詈雑言すから惨めです。
仏法者を名乗り創価を名乗り大作センセの弟子を名乗っているお方が、
そんな態度でいいんですかね~。まぁそういう姿を見せてくれるのは、
当方にとっては「ごちそうさま」って感じなんですけどね。
まぁ、いままでも当ブログに乗り込んできた創価活動家が
返答不能になり罵詈雑言吐いて遁走したのと同じで
創価活動家の「あるある」パターンだからなれていますけどね。
でも当ブログで罵詈雑言を吐いた学会員さん方がまともかな。ちゃんと私本人に言ってますからね。
鯛焼き君は直接言えずに陰口ですから、どんだけ姑息で臆病なんだろって思っちゃいますね。
そんな鯛焼き君が他人に向かって「人間性」とか言っちゃいます?(大笑)
それもまた創価の活動家特有の「振る舞い」ですね。
日蓮大聖人は善無畏三蔵抄で、
◆仮令強言なれども人をたすくれば実語・輭語なるべし、設ひ・輭語なれども人を損ずるは妄語強言なり
とご教授して下っています。丁寧な言葉を使う詐欺師とその詐欺師をキツく非難する人。どちらをとるかは読者の皆様にお任せします(笑)
それはさて置き鯛焼き君の泣き言のなかで唯一教学っぽい「開眼」の話がありましたので、
とりあえず大切な法義なのでそれだけ説明しておきます。
鯛焼き君曰く、開眼にしても、木絵二像の御書等での開眼とは「真言宗」への破折の意を持って使われているだけです。「御本尊様に開眼供養する」という意味では到底ないですし、とにかく勝手にそのように解釈しているだけ。だそうです。
相変わらず自分の言っていることを裏付ける文証もありません。本当に教学が壊滅的にありません。鯛焼き君の無残すぎる教学力に鯛焼き君ではなく彼の支部の会員さんに心からの同情を禁じえません。
あまり長くなるといけないのでなるべく簡潔に鯛焼き君の邪義を破折しておきます。
まず、木絵二像の御書等での開眼とは「真言宗」への破折の意を持って使われているだけですだってさ。
もうバカすぎです。確かに「木絵二像開眼之事」は付文の辺で言えば真言破折だが真言に限らず広く諸宗に通じることは普通は理解します。「立正安国論」だって付文の辺は念仏破折だが広く諸宗に通じるのと同じことです。
では何故真言を諸宗の代表にしたのかといえば、真言は一念三千を盗み取ったからです。
開眼の法義は草木成仏であり、草木成仏を支えている法理は一念三千なのでそれを盗み取った真言を破折しているわけです。
で、「開眼」ってなんでしょうといえば同じく木絵二像開眼之事に
◆木画の二像の仏の前に経を置けば三十二相具足するなり、但心なければ三十二相を具すれど も必ず仏にあらず
とあるように非情の草木に心を入れることです。なんの心を入れるかといえば
◆三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれ ば必ず純円の仏なり云云
◆法華を悟れる智者死骨を供養せば生身即法身是を即身といふ
とのお言葉からわかるように、法華経(法)と法華を悟れる智者(人)の心ですから、
当然人法一箇のご本仏大聖人の心法に他なりません。
ここでは「悟る」と表現されていますが、大聖人は「悟った」のではなく最初から「所持」していた方です。
ですから、法華経を悟れる智者とはご本仏大聖人以外にいないのです。
その法体(心法)は大御本尊が所持するもであり、
唯受一人血脈のご歴代は大御本尊からの法体の血脈の上で書写し開眼しているわけです。
だたの荒凡夫の大作センセが仮に大聖人仏法を正しく理解し実戦していたとしても、
大作センセが大聖人の代わりになることはないわけです。
つまり大作センセは「法華を悟れる智者」ではないわけです。
もっと言えば大作センセは大謗法の者以外の何者でもありません。
◆日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし(経王殿御返事)
とあるように、御本尊をご本尊たらしめているのはご本仏の魂(心法)が存在しているからです。
言い換えれば「開眼」とは大聖人の魂(心法)を非情の草木に篭めることにほかならない。
大聖人の真筆本尊であれば確かに開眼は不要だろうが
それ以外の書写本尊はもとはただの草木にほかならない。故に開眼をしなければ本尊としてのテイをなさないわけです。
書写本尊に開眼は不要というなら一体だれがどうやって大聖人の魂を草木からできた紙に書き写したのかということですよ。
仮に創価の言うように「南無妙法蓮華経」の文字自体に心法が宿っているというのではあれば
誰でも「南無妙法蓮華経」って書けば何でも本尊になるのか?便器でもいやそのなかのう○こも、南無妙法蓮華経のシールを作って貼れば「本門の本尊」になり、そのう○こを信じて唱題すれば便所は本門戒壇になって三大秘法が揃うのかよってことですよ。
鯛焼き君の主張ならばう○こも「本門の本尊」足り得る可能性があるってことだよ(大笑)
また、木絵二像が仏像・仏画だけだと思っているフシもあるが、勧心本尊抄に
◆此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか。
と書いてあるだろう。この御文を読めばここに書かれている「仏像」とは大聖人の曼荼羅本尊を指すことは明白であり
故に、木絵二像には曼荼羅ご本尊も当然含まれているんだよ。よって、「御本尊様に開眼供養する」という意味では到底ないですしなんていう痴論は通用しないし、、とにかく勝手にそのように解釈しているだけなのは創価と創価教学カブレの無教学の鯛焼き君のようなカツドウカの方ですよ。なにせこの人は、全く文証あげませんからね。
前回も書いたが、文証がないのは日蓮仏法においては邪義であり外道でありそれを主張するのは魔の伴侶という判定なんだな。
草木成仏の法義についてはまだまだ色々と書き足りないがそれはまた機会があればということにして、
それで?創価のカラコピ掛け軸は一体いつ誰が「大聖人の魂を染め流した」のかね?
どうやって大聖人の心法はカラコピ掛け軸にお移ししたんだ?学会員ならばその方法を当然知ってるんだろ?なにせ創価には「神秘的」なものなんて何もなくてオープンなんだろうから。鯛焼き君じゃなくてもいいや。創価本尊に大聖人の魂を移す「手順」を詳しく具体的に教えてくれないか?まさか歴代会長以外知らない秘法ってんじゃないだろ?(笑)それともそれすら創価から教えてもらっていないでカラコピ掛け軸を仏だと盲信しているだけなのか?(大笑)
もうね、本当に大聖人の仏法を学んだほうがいいですよ。
じゃないと鯛焼き君みたいになっちゃうし、鯛焼き君みたいな我見の幹部に騙されちゃうよ。
さて、こんな記事書くとまた鯛焼き君が半べそかいちゃうからもうやめるね。
直接対論できず遠くの方でイキっているようなキッズを構っている場合じゃないし、今回で鯛焼き話題は一時終了しまぁ~す。