創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

「大御本尊の事が御書に書いてません」ええ。それが何か?

戒壇大御本尊を捨てた邪教創価の活動家がいつもいうのセリフ。

それが「大御本尊につい御書にかいていない」である。

当時聖教での

▼大聖人御自身が、本抄(聖人御難事)において、直接、「弘安2年の御本尊」 について一言も言及されていない。

との説明を受けて創価活動家が「御書に書いていないだろう」なんて調子こいて言っている。

ええ。確かに御書には「弘安二年の大御本尊」について直接的な文言はない。

でもそれが何か?っていう話をしようと思う。

ぶっちゃけ大御本尊について御書に直接書いてないことなど当然の話で

創価活動家の主張なんて鼻嗤いのレベルの話だが、こうした莫迦ツドウカに騙されてる人もいないとも限らないしな。

さて、大御本尊について御書には直接的な文言はない。

同様に「大聖人が本仏である」という直接的な文言もない。

創価莫迦ツドウカはここで思考停止する。この先を考えないからいつまでたっても莫迦なままのなのである。

何故、大御本尊のことや大聖人がご本仏であるということが直接御書に書いていないのか?

こんなことは少し考えれば分かることで、御書に書いていないのはそれらは「法体」に関することだからである。

◆此の三大秘法は二千余年の当初地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり、今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり。 (三大秘法禀承事)

◆教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり(南条殿御返事)

これらの御文をよく読んでみたまえ。法華経に「三大秘法」や「一大秘法」が直接的文言で書いてあるかね?

法華経には「本門本尊」のことも「本門題目」「本門戒壇」のことも一言も書いていない。

このように「法体」については法華経文上において一言も言及していないのである。

これらの「法体」は上記の御文に明らかなように【面受口決】により教主釈尊から上行・日蓮大聖人へ相伝されたのである。

つまり「法体」というのは、経巻で不特定多数の者に相伝するのではなく

仏法の混乱を守るために面受口決により唯授一人へ相承するものなのである。

今月の御書である「生死一大事血脈抄」講義でもしたが、相承には総別の二義があるのである。

御書というのは「法門」の相伝であり全ての僧俗への相伝ではあるが、

◆此の経は相伝に有らざれば知り難し(一代聖教大意)

との御文にあるように「法門」の相伝というのは「法体」の相伝(唯受一人血脈)が大前提なのである。

そして前述のように「法体」の相伝(相承)というのは、面受口決・唯授一人が仏法における鉄則であるから

「大御本尊」のことや「大聖人がご本仏である」ことが、御書に書いていないのは当然の話なのである。

もちろん、大御本尊に関することを筆頭に「法体」については大聖人から日興上人へ唯授一人の付嘱がなされ、

その後日興上人以下のご歴代へと血脈相承されている。それが日興門流ひいては大聖人仏法なのである。

それを言うに事欠いて、御書に書いていないからといって大御本尊不受持の論拠にするとは

莫迦丸出しで無信心の恥かしい痴論であると断言しておこう。

そういえば一知半解の出来損ない創価民がブログで、

▼宗門の人に尋ねたい。一体「御本尊に対する開眼供養の具体的なやり方・その資格を有する条件」が御書の何処に書いてあるのか教えて欲しいものだ。

なんて書いていたが、これも同じ。開眼は「法体」に関する事項ゆえに御書にその詳細が書いてあるわけがないのである。

御書に書いてある開眼についての記述はあくまでも草木成仏等の法門・法理に関することだけだ。

御書に開眼の具体的方法など書いた日には「我こそは本仏である」と名乗る莫迦が必ず現れるだろうしな(嗤)

まぁその前にこの創価民も創価莫迦ツドウカ同様、「開眼」ということを全く理解できていないのだが。

なにが「宗門の人に尋ねたい」なんだか。それほど知りたければ、その中途半端な創価教学を捨てて教えを乞いなさい。と言っておこう。

さて、このような半端な創価狂学莫迦が「御書に書いていない」などという痴論を発するたびの思い出すのが、

顕本法華宗の開祖・日什である。日汁は、経巻相承・直授日蓮 (直受法水)などといって

大聖人仏法は御書を読めば全て分かる。御書に全て書いてあるからそれ以外の相伝は不要などと愚かな主張をした。

今の創価莫迦ツドウカがいう、「御書に書いてないから大聖人の真意でない」とか「大聖人直結」などという発想は

まさしく「経巻相承」「直授日蓮」の顕本法華宗の教義そのものである。

邪教の発想というのはいつの時代も「同じ発想」なのである。

「法門」と「法体」の違いすら分からず、その相承方法の違いも分からず

小っ恥ずかしい痴論を知ったかぶりしてドヤ顔で喚く姿は見ているこっちが赤面するレベルである。

このような邪義・我見で無信心の半端者に騙されないように気を付けよう。

「御書」にかいてあるのは「法門」で「法体」については御書には書かれていない。

これは大聖人仏法を信仰する者の基礎教学である。

なので創価莫迦ツドウカ達に「大御本尊の事は御書に書かれていない」と言われたら、

「ええ。書いてないよ。そんなの当たり前でしょ。それが何か?」と

鼻でせせら笑いしながら言い返してあげましょう。

そして、創価活動家の莫迦さ加減を教えてあげましょうね。


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