創価ダメだしブログ

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創価教学じゃない御書講義(29年度5月座談会御書・四条金吾殿御返事)

なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし、

「諸余怨敵皆悉摧滅」の金言むなしかるべからず、

兵法剣形の大事も此の妙法より出でたり、

ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候

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今月の座談会御書は「四条金吾殿御返事」中の

法華経兵法事」or「剣形書」

これもまたメジャーな御文ですね。

ここで仰せの「兵法剣形」とは

現在で言うと、能力とか才能とかスキルとか

そういった幸福になるための手段・方法。そんな所です。

で、そうしたものよりも、法華経の兵法を用いなさいということ。

もちろんそうした「兵法剣形」が無駄である。といっているのでありません。

この御書の冒頭に

◆夫れ運きはま りぬれば兵法もいらず果報つきぬれば所従もしたがはず、所詮運ものこり果報もひかゆる故なり

とあるように、才能・能力・努力を活かすのも

法華経の兵法」である。ということです。

世間でも才能があっても運がなければ成功することはまずありません。

さて法華経の兵法とは、この前文に

◆ただ心こそ大切なれ

とあります。ここでいう「心」とは「信心」ということです。

信心とは具体的にいうと「本門の題目」事。

「本門の題目」とはいつもいうように、大御本尊を信じてあげる題目です。

ここがポイントですね。

大御本尊を受持の対象としない人の題目は

「本門題目」ではない。だから祈りはかなわない。

◆いかに日蓮いのり申すとも不信ならばぬれたるほくちに火をうちかくるがごとくなるべし

とあるように、我々が祈る祈りは同時にご本仏大聖人の祈りでもある

その大聖人(大御本尊)を信受しなければ

いくら祈ったところで無駄なわけです。

「兵法剣形」即ち才能や能力を活かすのは

この法華経の兵法です。

そこが狂ってしまっては、いくら「兵法剣形」の才を持っていても

それを活かしきることができないわけですね。

ではなぜ「深く信心」を取れないか?

大御本尊に信をとれないか?

それは「臆病」だからです。

特に創価の会員さんはここをよく拝してください。

「大御本尊を受持の対象にない」ということは正しい信心ですか?

おそらく多くの学会員さんは「正しくない」と思っているでしょう。

それを「正しい」と思っているなら

もはやその人は謗法に染まっているので手遅れですね。

そうじゃない会員さんはどうでしょう?

「正しくない」と感じているけど、

創価に言われた通りにするのはなぜでしょう?

創価の組織から離れたくない。

大作センセが好きだから。

おそらくそうした人情論とか世法のつながりがあるから

創価がいうことに従っているだけではないですか?

あえて厳しく言いますよ。

それを「臆病」というのです。

しかもあえて臆病なのです。

「あえて」とは、自ら進んで臆病になっている。ということです。

病気であることを知っていながら治そうとしていない。

ですから貴方たちの祈りは叶わないのです。

「いや私は祈りが叶った」という人もいるでしょうが

そう言う人は要注意です。

それは「魔の通力」であって「功徳」ではありません。

「私は大御本尊を捨てていない」

そう反論する方もいると思います。

では、あなたがいまでも「大御本尊を捨てていない」証拠はなんですか?

五座三座の勤行をしてますか?

大御本尊へのご観念をしていますか?

あなたが創価の化義を実戦しているのならば

「大御本尊を捨てていない」なんてウソを言ってはいけません。

それも「臆病者」のすることです。

◆浅は易く深は難しとは釈迦の所判なり浅を去て深に就くは丈夫の心なり(撰時抄)

創価の組織から離れること

創価の活動をやめること

創価への供養をしないこと

「そんなこと今更できない」

その「臆病な心」を捨て「丈夫の心」になりましょう。

「心こそ大切なれ」

ですよ。

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