創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

ご観念文に関すること

「とど」さんからご観念文に関するコメントを頂いたので

今日は、またご観念文に関する話。

昨年、創価がご観念文を大幅に変更したのは周知の通り。

内容だけでなく、「ご観念文」のことを「ご祈念文」などとし

その呼び方も変えた。

まづ言いたいのは、「ご祈念」と「観念」とは違うということ。

「祈念」とは自分自身の事を念じることであり

「観念」とは仏のことを念じること。

勤行は修行である以上「祈念」でなく「観念」するのが基本。

なので創価の「ご祈念文」というのは、そこに「仏を念じる」意義がない。

法華経の肝心の南無妙法蓮華経に報恩感謝」

することを「祈念」するなんてのはおかしい話だ。

勤行の修行とは、大御本尊と冥合することが目的なのであるから

「祈念」でなく「観念」

自分のこと念じるのでなく、ご本仏のことを心に念じるが大切で

「ご祈念文」などと呼ぶ事自体ズレている。

で、このご観念文の変更・改悪を正当化するための

創価活動家・創価擁護派の主張ってのはほぼ同じで

「宗門だってご観念文を変えているのだろう」から始まって

「化義は時代ともに変わって当然、自分達(宗門)だって変えてきたじゃないか」

というロジックを展開する。

ここに、ご観念文に限らず勤行などの総ての化義を当てはめる。

「お前らだって変えてきた」

「化義を変えないのは時代錯誤も甚だしい」

っていうわけだ。

これは、ちょと聞くと「そうだ。そうだ。」ってなりそうなんだけど

この創価のロジックは完全に破綻している。

以前も書いたが、在家・信徒が「勝手に化義を変えていい」などと

大聖人も日興上人も一言も言っていないし許していない。

また一信徒や一講が化義を勝手に作ったという歴史的事実もない。

「宗門だって変えてるんだから、俺たちが変えて何が悪い」と創価はいうが

おおいに悪い。

大聖人が許してもいなければ認めてもいない在家による化義変更をするなどというのは

言語道断の行為であり、大慢心であり、大謗法だ。

これを悪いと言わずになんと言えるのか。

大聖人から見れば、「お前ら何様のつもりだ?」ってところだ。

そんな大慢心・大謗法の作った

「観念」ならぬ「ご祈念」など読んでも

何の願いも叶うはずがない。

大地を指す指が外れることがあっても、創価勤行の祈りが叶う事はない。ということだ。

正しいご観念文を

朝夕に読む(念じる)というのは

実は一番の教学でもある。

特に二座のと三座の観念文には

大聖人仏法の根幹・真髄・根本が全て含まれいる。

これを日々読むことは、日々御書を読んでいるようなものだ。

ご観念文の意味を理解できようができまいが関係ない。

正しいご観念文を読み続ければ大聖人仏法が自然と生命に刻まれ

それが功徳となって顕れる。

ご観念文というのは、学会活動家が言うような

「単なる化義」ではないのだ。

それを「単なる化義」としか捉えられないとは哀れである。

ともあれ、「ご祈念」が叶う信心をしたいのならば

正しいご観念文を御本尊に申し上げるよう心がけたいものだ。

特に俺と同じように、謗法団体の創価に籍を置いている人は尚更だ。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ