創価ダメだしブログ

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有名僧侶略伝① 鑑真・行基

日蓮大聖人仏法の信仰者である私達は大聖人のことは知っているけど他宗の僧侶のことはあまり良く知りませんよね。知らなくても特に困るという事はありませんが、仏教の周辺知識として知っていおいても無駄にならないと思うので何人かの有名な僧侶の略伝を書いていきたいと思います。とはいっても私もそこまで深く他宗の僧侶のことを学んでいないので簡単な記事になりますので予めご了承下さい(笑)では第1回目は大聖人が『神国王御書』で【譬えば、日本国の行基菩薩と鑑真和尚との法華経の義を知り給いて弘通なかりしがごとし】と言われている奈良時代を代表する鑑真と行基です。

鑑真・・・鑑真の名前は聞いたことがあるがある人が多いと思いますが唐から具足戒を伝えた律宗の祖です。天平5年(733)に栄叡・普照という二人の僧が遣唐使船で入唐し鑑真に戒師の派遣を要請しますが鑑真は自らが日本に渡る決意をし、数度の渡航失敗で失明をしながらも天平勝宝6年(754)に来日し東大寺戒壇堂を作りました。東大寺戒壇堂は「国分金光明寺戒壇院」として鎮護国家の中央戒壇に位置付けられます。以後、西戒壇(福岡県観世音寺戒壇院)と東戒壇(栃木県下野薬師寺戒壇)と合わせ「天下の三戒壇」として僧尼に授戒するようになりました。鑑真が伝えたのは「四分律」で、僧は二百五十戒・尼僧には三百四十八戒が三師七証と呼ばれる10人の僧侶から授けられる授戒儀礼です。その戒を受けると「円満具足」することから「具足戒」といいます。これによって官僧のルールが整備されました。これ以前は「自誓授戒」でした。(自誓授戒については別の機会で記事にしたいと思ってます)「天下の三戒壇」は鎮護国家の仏教の新たな構築でしたが、皇帝や調停は「梵網経」の戒を重んじて「四分律」の戒はあまり重んじられていなかったと思われ、「続日本記」にも鑑真はあまり登場しませんが、自誓授戒によって質が低下した僧侶の質の向上につながりました。鑑真は中国天台宗の法系に属し、『摩訶止観』などの天台の典籍を日本にもたらしました。

行基・・・行基は知らない人も多いと思いますが、聖武天皇の帰依を受けその命により奈良・東大寺の大仏を造立した僧侶です。天智7年(668年)に和泉国大鳥郡(現在の大阪府堺市)に生まれ15歳で出家し24歳で受戒しました。当時は「大宝律令」の一環として発布された「僧尼令」によって僧侶は寺院に籠って国家守護を祈祷することが常識でしたが行基は民衆に積極的に布教をしました。そんな行基は朝廷から弾圧され、また「小僧」と貶称され正式な僧侶ではなく私得僧だと言われました。しかし行基の集団は寺院や橋などを造る社会事業を行い人々から支持を得て、その実績が認められ聖武天皇より大仏造立の命を得て官僧の頂点である大僧正に任命されたのです。(天平17年)それまでは僧正が最高位でしたからその上位の大僧正は行基が初めてになります。天平21年正月には聖武天皇行基を師として受戒し勝満という戒名を受け翌月に82歳で遷化しています。行基が開いたといわれる寺院は全国各地にありますが、そのうち行基が自ら創建したとされる摂河泉と大和、山城の寺院を総称し49院と呼びます。また行基が亡き父母を偲んだ「山鳥のほろほろと鳴く声きけば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」の歌は釈教歌(仏教の歌)の最初と言われています。さらに行基作とされる「法華経をわが得しことは薪こり菜つみ水汲み仕へてぞ得し」の歌は法華講員の方の中にも聞き覚えがある人もいると思いますが私もいつも思い出す歌です。「法華経を得る」とは「法華経を知る」「法華経の功徳を得る」など色々と解釈できますが私達の信心に即せば御本尊にお給仕し日々の勤行唱題の御供養を申し上げる中にしか「法華経(妙法)」はないということです。これが「観心の信心」なんですね。こうした行基の言動を知ると大聖人が「法華経の義を知り給いて弘通なかりしがごとし」と言われているのがよく理解できますね。

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