創価ダメだしブログ

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六巻抄拝読の為の基礎知識⑩(依義判文抄②)

前回は法華経文上にも三大秘法が説かれている事を知るために三大秘法の開合の相を示しましが今回はそれを踏まえて実際に法華経の文を挙げ、法華経文上に三大秘法が説かれていることをご指南されている部分になります。全部で10の文を挙げていますがまずはその前半部分を学習したいと思います。

【第一に法師品の若復有人等の文】

◇法師品に云わく、「若し復人有って妙法華経乃至一偈をも受持し読誦し解説し書写せん、此の経巻に於いて敬視すること仏の如く種々に供養せん」等云云。応に知るべし、受持は即ち是れ本門の戒壇なり、読誦等は本門の題目なり、於此経巻敬視如仏は本門の本尊なり、此の文に則ち人法の本尊を含むなり。

この法華文上の文の中の「受持」=本門戒壇・「読誦」等=本門の題目・「於此経巻」「敬視如仏」=本門の本尊であると日寛上人は会通されてます。そこで問者はまず「受持というのは修行だから戒壇ではないのではないか?」と質問しますが日寛上人は「受持」には、所持の法体・能持の信行・受持の儀式と三つの意味があり、その意味においてここでは受持の儀式である本門の戒壇にあたると答えます。よく言われる受持とは唱題というのは能持の信行に約した受持です。そして受持する法体は本尊です。「受持」の一字に三大秘法が含まれているわけですね。次に問者は「読誦」とは南無妙法蓮華経題目のみではなく法華経一部を読誦することではないか?と質問しますが、法華経には広略要があり末法においては要の法華経である題目に約すと答えます。また戒壇については法勝人劣を言う問者に対し人法一体の深義が「如」の一字で説かれている事を示します。「経巻(法)を仏(人)の如く視る」すなわち人法一体です。

【第二に法師品の在々処々等の文】

◇法師品に云わく、「薬王、在々処々に若しは説き若しは読み若しは誦し若しは書き若しは経巻所住の処には皆応に塔を起つべし」等云云。 応に知るべし、若説若読等は本門の題目なり、若経巻は即ち本門の本尊なり、所住之処皆応起塔は本門の戒壇なり、中に於いて所住之処は義の戒壇なり、皆応起塔は事の戒壇なり。

この項では◆凡そ戒定慧は仏家の軌則なり、是の故に須臾も相離るべからず。この部分が大切です。三大秘法とは『戒定慧』の三学の事です。(末法の三学=三大秘法です)そしてこの三学は各別に存在するのではなく一体であるからこそ成仏が可能になります。然るに今の創価民はこれを理解できずに戒壇大御本尊は本門の本尊だが大石寺は本門の戒壇ではないから三大秘法が揃わないなどと莫迦な事をいいます。これこそ正しく三大秘法の開合の義を知らない故の痴見です。もし大石寺を本門の戒壇ではないと言うのであれば大御本尊を本門の本尊であるというのは仏法の道理に反しているわけです。さて問者は、では具体的に戒壇はどのような姿なのか?と質問しますがここでは日順師の心底抄を引用し後難を招く恐れがあるので具体的な戒相に言及しないとされます。

【第三に宝塔品の此経難持等の文】

◇宝塔品に云わく「此の経は持ち難し、若し暫くも持つ者は我即ち歓喜す、諸仏も亦然なり、是くの如き人は諸仏の歎めたもう所、是れ則ち勇猛なり、是れ則ち精進なり、是れを戒を持ち頭陀を行ずる者と名づく。則ち疾く無上仏道を得たるなり、能く来世に於て此の経を読み持たんは、是れ真の仏子にして淳善の地に住するなり」云云。 応に知るべし「此経難持」より「無上仏道」に至る三行の文は即ち是れ本門の本尊なり。「能於来世、読持此経」とは即ち是れ本門の題目なり「是真仏子住、住淳善地」とは即ち是れ本門の戒壇なり。

まず最初にこの文の「此の経は持ち難し~頭陀を行ずる者と名づく」までの部分は三大秘法総在の本尊、すなわち一大秘法の本尊を示すことをご指南されています。曰く「此の経」=法本尊・「即ち歓喜す、諸仏も亦然なり」=人本尊・「是れ則ち勇猛なり、是れ則ち精進なり」=本門の題目・「是れを戒を持ち頭陀を行ずる者と名づく」=本門の戒壇という事です。以下それらの詳しいご指南が書かれています。

【第四に寿量品の此大良薬等の文】

◇寿量品に云わく、此大良薬は色香美味皆悉く具足す云々。此の文に三大秘法顕然なり。 大師釈して曰わく、色は是れ戒に譬う、事相彰顕なり、香は定に譬う、功徳の香一切に薫ず、味は慧に譬う、理味を得るなり等云云。色香美味既に是れ三学、豈本門三大秘法に非ずや。

「色香美味」の色とは目に見える姿ですから「戒壇」、香とは身にまとうものですから定で「本尊」、味とは色香を判別する智慧ですから「題目」ということです。さてこの項の最後に問者より三大秘法を『本門』というのは何故かとの質問があります。これに対し法華経本門の文底の秘法であるからという相待妙での意味と久遠元初つまりは一番最初の本門というか一番最初には本門以外ない(独一本門)という絶待妙の意味があるとしたうえで、三大秘法に付く『本門の』という意味は独一本門という一つの意味しかないとご指南されています。

【第五に寿量品の是好良薬等の文】

◇寿量品に云わく、「是好良薬今留在此、汝可取服勿憂不差」等云云。応に知るべし、此の文正しく三大秘法を明かすなり、所謂是好良薬は即ち是れ本門の本尊なり、今留在此は即ち是れ本門の戒壇なり、汝可取服は即ち是れ本門の題目なり。

この文も非常に分かりやすい会通ですから詳細は本文に任せます。さてこの項で日寛上人はは、まず天台の五重玄を挙げて更にこの五重玄には深い意義があると言われています。◆ 問う、其の深意如何。答う、是れ秘事なりと雖も一言是れを示さん。~若し爾らば是好良薬の文豈人法体一の本尊に非ずやの部分が大聖人仏法の五重玄の深意です。天台と大聖人の五重玄の違いはどこにあるのかというと、天台の五重玄は「法」を訳した教相の五重玄であって対する大聖人の五重玄は「人法一箇」の観心の五重玄だという事です。すごく簡単に説明すると、天台は法華経主題の妙法蓮華経の名に「名・体・宗・用・教」が含まれているとと説きましたが、大聖人仏法においてはご本仏の体である戒壇大御本尊様に「名・体・宗・用・教」が含まれるということです。天台と大聖人の五重玄の違いはここにあるわけです。このあたりの話になるとかなり長くなってしまうのであとは皆さんが各自、学習してください(笑)という訳で今日はここまでです。次回はこの続きを書きたいと思います。

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