創価ダメだしブログ

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御講拝読御書研鑽(2023年2月・持妙法華問答抄)

只須く汝仏にならんと思はば慢のはたほこをたをし忿りの杖をすてて偏に一乗に帰すべし、名聞名利は今生のかざり我慢偏執は後生のほだしなり、嗚呼恥づべし恥づべし恐るべし恐るべし。

昨晩、御講御逮夜に参詣してきました。今月の拝読御書は『持妙法華問答抄』でした。本抄については過去にも記事にしていますのでよかったら併せて読んでみてください。本抄はやや長め(中編くらい)の御書ですが多くの重要な御指南がありますので全部読むことをお勧めします。さて今回の御文ですが本抄は他にも

◆臨終已に今にありとは知りながら我慢偏執・名聞利養に著して妙法を唱へ奉らざらん事は志の程・無下にかひなし

◆生涯幾くならず思へば一夜のかりの宿を忘れて幾くの名利をか得ん、又得たりとも是れ夢の中の栄へ珍しからぬ楽みなり

と重ねて述べられており大聖人は名聞名利・我慢偏執を戒めています。これは名聞名利を求めてはいけないという意味ではありません。仕事や商売で経済的に豊かになったり、会社や社会で活躍して称賛されたりすることもそれを励みに努力することは全く悪い事ではなくむしろ素晴らしい事です。それによって信心が疎かになることがいけなのです。

◆賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり、をを心は利あるに・よろこばず・をとろうるになげかず等の事なり、此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなり(四条金吾殿御返事)

とあるように、地位や名声、財力や権力によって信心が左右されるようでは愚人なのです。名聞名利にとらわれた人間は必ず我慢偏執に心を起こします。「我慢」とは自身を慢ずる心でありこの心が他者に対する驕慢となりやがて三宝に対する驕慢謗法となるのです。その最たる例が創価池田大作です。財力を持ち権力を持ち勲章や称号を漁りその結果、日達上人を始めとする御歴代上人を見下し破門されとうとう御本仏の色心二法である戒壇大御本尊まで「単なる物体」と見下し捨てたのです。もちろん、そんな池田に従う学会員も同じです。そんな池田の末路をみてください。もう13年も人前に姿を表すことができない状態で「生かされている」だけの木偶の坊です。名聞名利・我慢偏執にとらわれ、「不持」妙法華となった人間の人生の見本が池田大作です。嗚呼恥づべし恥づべし恐るべし恐るべし】との大聖人のお言葉の通り人生晩節を汚しています。そんな池田の二の舞にならない為にはどうしたらいいのか?日寛上人は『安国論文段』の中で

◇縦い名聞の為にもせよ、若しは利養の為にもせよ、身に妙法の行を立て、口に妙法の行を説け。或は身を仏前に運び、口に妙名を唱えよ。若し爾らば意業は自ら妙法の大善に入るべきなり云云。

と御指南されています。つまり常に下種三宝戒壇大御本尊に報恩感謝の念を忘れないとこです。感謝の念を忘れないというのは具体的には、日々御本尊にお給仕し勤行唱題を怠りなく登山・参詣・御供養そして折伏を心がける。その上での名聞名利であればいくら求めてもいいのです。0分勤行に象徴され池田大作はそれが出来なかったわけです。正しい本尊に向かい正しい修行をした上での【名聞名利】は、【妙聞・妙利】になるのです。この信心(御本尊)は、名聞名利を妙聞妙利に変える力があるのです。煩悩側菩提とはこのことです。本抄の最後に、

◆須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき

とあるように、須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧ん】という自行化他の唱題の実践が「持妙法華」すなわち「妙法を持つ(たもつ)」ということであり、その善業だけが唯一次生に持っていける今生の思い出なのです。

 

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