創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

富士門流の法難⑤(寛政度の法難)

今回は、寛政7年(1795)~文化4年(1807)の13年間に惹起した『寛政度の法難』を書きます。この法難は京都・要法寺の本尊改奠(かいてん)運動に伴う法難です。要法寺の起源は日目上人の御遷化後に上洛して代奏をした日尊師がそのまま京都に残り上行院を創建し更に弟子の日大が住本寺を創建したことに始まります。比叡山延暦寺18万人による日蓮宗派への焼き討ち事件である天文5年の『天文法乱』でこの二箇寺は災禍を受け焼失しました。その後、天文19年(1550)に広蔵院日辰によって上行院・十本時の二箇寺を合併して再建されたのが要法寺です。この日辰が造仏・一部読誦論者だったので要法寺内に邪義が蔓延し更に日蓮宗諸寺と協調する協定を結ぶまでになります。要法寺の造仏に関しては日尊師が上行院に檀信徒から寄進された釈迦立像を一時的に安置したことが後の要法寺・日辰の邪義の遠因になっています。日辰没後、日賙(にっしゅう)師により邪義が是正され大石寺と関係修復されましたが天和年間になると日饒(にちにょう)・日舒(にちじょ)・日眷(にっけん)等により再び【造仏・一部読誦】の邪義を主張するようになり大石寺への離反が露わになります。その時に要法寺の【造仏・一部読誦】の邪義を破折したのが当ブログでも学習した日寛上人の『末法相応抄』(六巻抄)です。それにより要法寺内においても釈迦像から大曼荼羅本尊を安置すべきだという本尊改奠運動に発展しました。寛政度の法難はいわば日寛上人の破邪・顕正の折伏によって起きた法難といっていいでしょう。天明3年(1783)に造仏を是正しつつあった要法寺に倣い美濃・正興寺が仏像撤廃した所、それを不当であると法華寺が訴えたのをきっかけに要法寺の本尊改奠が京都15本山(協調協定を盟約した京都の日蓮宗系寺院)の中で大問題へと発展しました。寛政7年、15本山側の本隆寺・日東が要法寺の祖師堂の本尊式に難癖をつけ釈迦・多宝等の仏像を安置するように要求し要法寺がそれを断ると「諸事同様にいたすべき」の協定違反で要法寺を訴えます。更に15山側は要法寺の義を当時幕府が取り締まっていた切支丹・不受不施派と同様であるがごとくの讒言をします。これにより要法寺は一山残らず召し取りとなり、役僧2名が入牢、他の僧侶は他山預けとなり要法寺は竹柵で出入り禁止(閉門)となります。寛政9年(1797)には末寺の石見法蔵寺・日誠が件の本尊問題で入牢中に毒殺されます。しかしこうした弾圧にも要法寺全山の本尊改奠の熱意は怯むことなく文化4年までの13年間、幕府及び15本山に対して抵抗を続けます。寛政9年には要法寺が「大石寺開山の弟子続き」を主張したことから幕府から大石寺に照会がありましたが、当時、要法寺との親交がなかった大石寺では、要法寺を日興上人の門流であるとしながらも「要法寺の歴代血脈相承は不明で有る」と大石寺と同系であると敢えて答申しませんでした。その後、事の顛末を知った大石寺では様々な形で要法寺を支援しましたが寺社奉行は再三にわたり要法寺側に15本山との和解し盟約に従うように強要しました。拒否すれば国禁の邪宗教とされる恐れもあり、長期間に亘る閉門で檀信徒離れの問題も抱えた要法寺はこれに応じようとすると今度は末寺が猛反発し要法寺との本末関係を解消すると迫る騒動にもなりました。しかし、13年に亘る抗争で要法寺は本末ともに疲弊し、ついに文化4年5月24日に要法寺側が造仏・黒衣を受け入れる形で15本山と和解し法難が終息すると同時に要法寺は再び邪義・邪宗として現在に至っています。しかしながら、当時の要法寺の檀信徒の純信な信仰心と熾烈な抗争は十分評価されて然るべきでしょう。そしていつの日か再び当時のような檀信徒が要法寺に現れ日蓮正宗に帰伏することを期待せずにいられません。その時こそ寛政度の法難で戦った多くの要法寺檀信徒の願い・祈りが叶う時であり『寛政度の法難』がいや増して宗史に燦然と輝く事でしょう。

 

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