我家の枝垂桜が六分咲きになりすっかり春めいてきました。
桜と言えば大石寺の桜もすっかり観光名所として知られるようになりましたね。桜の時期に御登山したことはありませんがYouTubeなどで見る総本山の桜は見事です。そんな中、創価系怪文書『フェイク』が今月は大石寺の観光地化を阻止した戸田会長の登山会といった内容の文書を配布したようだ。もっとも、このネタも『地涌』など昔から使いまわしされているネタを焼き増しただけのカビの生えたネタで新鮮味がまるでない代物だ。戦後大石寺が窮乏していたのは事実だし戸田会長が登山会を始めて総本山が潤ったのも事実だが、登山会と大石寺の観光地化を結び付けるのは牽強付会というものだ。というのも「富士北部観光懇談会」を開催したのは昭和25年11月で戸田会長が登山会を開始したのは昭和27年10月である。もし戸田会長が大石寺観光化を阻止する目的で登山会を始めたのならこの2年間のタイムラグの説明がつかない。またこの2年間で実際に大石寺が観光地化されたという記録も事実もない。さらに細井庶務部長(後の日達上人)や戸田会長の発言で「観光地化阻止」に言及した文書は私の記憶では何も残っていない。戸田会長は総本山や御僧侶の困窮を改善する手助けするとは言っているが観光地化阻止などと言った記録は見たことない。つまり「総本山観光地化」と「登山会」には直接的なつながりはないのである。また、確かに戦後の総本山は疲弊していたが『フェイク』のいうような惨状ではなかったと思われる。細井庶務部長の庶務短想によれば昭和23年の御会式には信徒六百数十人と近隣の人々で2000人余りが集まったという。この時に再建された客殿と六壺の落慶式も同時に行われたが、その費用として当時の金額で200万円もの御供養が集まっている。無論、創価の力を借りずにだ。更にこの頃には末寺もボチボチ復興し始めている。その事実を鑑みれば確かに困窮はしていたかもしれないが存続に関わるような事態ではなかったことが窺がうことができる。戸田創価によって大石寺は大いに発展したのは事実だが、「創価がいなければ大石寺はつぶれていた」などと言うのはデマ以外の何物でもない。そして創価怪文書の一番の印象操作のデマは【観光地化=謗法】という論説である。確かに身延久遠寺のように観光客と勤行唱題するよう真似をすれば謗法であるが大石寺が戒壇大御本尊を拝観料を徴収して公開したり観光客と同座して勤行唱題をしようと思ったいたはずはない、その事は前述の「富士北部観光懇談会」の席上で堀米宗務総監(後の日淳上人)の
◇近来、観光に付いて社会ではいろいろと施設や計画が進められているが、当本山として、今までそうゆう事には無関心のごとく見られていた。今後は清浄なるこのお山をけがすことなく世道人心に益したい。
とのお言葉に明らかである。「この御山を汚すことなく」と明言されいるでないか。怪文書は【信心もしない人を大石寺に参詣させて、その人たちが落とす金を狙うことは、謗法の布施を禁じた宗旨に違背することは明白であった】などと息巻いているが、これこそが法義に無知な創価民を騙す印象操作に他ならない。日有上人の化義抄には、
◇法花宗の御堂なんどへ他宗他門の人参詣して散供まいらせ花を捧くる事有り之れを制すべからず、既に順縁なるが故なり、但し大小の供養に付いて出家の方へ取り次ぎ申して仏聖人へ供養し申せと有らば一向取り次ぐべからず、謗法の供養なるが故に、与同罪の人たるべし云云。
との条項がある。これは未入信の人が総本山や末寺に勝手に参詣し御供養することを禁じない。とい言う意味である。何故ならそのような人々は順縁だからだ。つまり怪文書のいう「信心しない人が大石寺にお金を落とすのは謗法の布施にはならない」のである。御僧侶が取り次がなければどんな人でも大石寺に参詣して御供養をしてもいいのである。また先日の『化義抄の学習』で書いたように仕事としての金銭のやり取りも謗施に当たらない。つまり観光客に飲食やお土産物を提供・販売することも可能だし、大石寺と別法人が入園料を徴収しても謗法にはならない。これは近年宗規を変更したのでなく日有上人の室町時代からの化義である。こんなことも知らずに書いているならこの怪文書の書き手は無知だし知ってて書いているなら悪質な印象操作である。そしてその怪文書を鵜呑みにして「大石寺観光地化」は謗法なんて言っている創価民は本当に莫迦の見本としか言いようがない。どこが「宗旨に違背することが明確」なのか明確に答えてみよ。堀米宗務総監の【今後は清浄なるこのお山をけがすことなく世道人心に益したい。】というお言葉は実に素晴らしいじゃないか。創価の言う「世間に開かれた宗教」とはこういことだろう?いつも宗門を閉鎖的だと誹謗するくせに「観光地化は謗法」って自語相違も甚だしい。私は是非総本山を観光名所にして欲しいと思っている。「信は荘厳より起こる」と言われるように総本山の荘厳された姿に触れそこから大聖人の仏法への信心を信仰してくれるような方が現れるだろう。桜の季節には広布広場に屋台でも並べたら楽しそうだ。創価本部のサティアンでは信心を起こすような人はいないだろう。ああ、だから創価は大石寺が観光名所になるを阻止したいのだね。自分達の本部かあまりにも何もなくてみすぼらしいから。新興宗教団体は可哀そうだ。心から同情するよ。(笑)
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