創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

日應上人。

今年は総本山第56世・日應上人の第100回遠忌ということで総本山で「日應上人展」を2度見てきました。日應上人は現法主猊下の日如上人の曾祖父です。嘉永元年(1848)に現在の山梨市に産まれ俗名は「直次郎」といいます。安政5年(1858)に11歳で日霑上人の元で出家得度し道号は「慈含」、阿闍梨号が「甲斐阿闍梨」「大石阿闍梨」、院号が「法道院」です。文久3年(1863)に細草檀林に入り檀林退出後の明治2年(1870)に福島県の三春・法華寺に住職として赴任されその後仙台の仏眼寺(飛び曼荼羅のある寺院です)住職に就任します。明治17年に大石寺宗務局の初代局長に就任(同19年に宗務局は法務局と改称)明治19年には17年にわたる東北在住から東京・常泉寺の住職となり明治22年5月21日に日布上人より血脈相承を受け第56世の御法主上人となられました。日應上人の時代は54世日胤上人以来の大石寺・分離独立運動の最中でした。日胤上人も分離独立に向け尽力さ明治30年9月18日についに内務省からの許可が下り大石寺は悲願の分離独立を果たし「日蓮宗富士派」を公称するに至りました。(その後日正上人時代に日蓮正宗と改称します)。また日應上人は明治31年に本郷西片町(現在の文京区)に法道院を創立され、東都(東京)弘通に力を入れてきました。明治41年11月10日に日正上人に法を付属され御隠尊上人となられた後も深川法道会を拠点に東京弘通に活躍されます。その後現在の港区内の弘教所「潜竜閣」を創立しここに移ります。大正10年には神奈川県の鳥越に留錫します。そして大正11年(1922)6月15日・御年75歳を一期とし御遷化されました。【草の葉に置く身は露と消ゆるとも意(こころ)は法の華に注がん】が御辞世の句です。さて、日應上人に対する私のイメージは「イケイケの武闘派」です(笑)日應上人を知るきっかけが上人の御述作の「辯惑觀心抄」だったからかも知れません。同抄についてはまたいずれご紹介しますが要法寺・驥尾日守の論をなますの様に切り刻んでいくその破折は痺れます。また国柱会が講演で正宗の非難をしていた席に同座されていた上人が講師に上人の名刺を渡すとそれ以降講師から一言も正宗批判の言葉が出てこなかったというエピソードも「いかにも」という感じです。現在の池袋の法道院はこの日應上人が開基の寺院ですから上人の破折精神が講中に受け継がれているのかなと思ってます。私は創価広宣部時代に法華講との対論を何度もしましたが対論していて手強かったのは大草氏率いる妙観講法道院法華講でしたね。そんな自分の黒歴史をふと思い出します。そういえば妙観講も元々は法道院講中ですね。また本ブログの読者の方も創価から法道院法華講に転身した方もいます。因みに顕正会の前身の妙信講も一時法道院所属でした。(浅井会長の父甚兵衛氏が法道院の講頭で昭衛が青年部長なんて時代もあったようです)法道院は大寺院ですから色々なことがありますけど開基である日應上人の東都弘通の精神を伝承している素晴らしい寺院だと思います。私も一度は参詣しようと思っています。なにせ、日應上人は私の破折の師匠ですから。「イケイケ・ドンドンの武闘派」ですからね(妄想)

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