創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

六巻抄拝読の為の基礎知識⑱(当流行事抄③)

今回は、「当流行事抄」の寿量品編です。まず最初に寿量品読誦の意義について、

◆唯是れ文底が家の寿量品を読誦して以って助行とするなり。此こに亦二意有り、一には所破の為め、二には所用の為めなり。是れ則ち此の品元両種の顕本、体内・体外等の義を含むが故なり。

と結論を述べています。即ち寿量品を読誦する意味は、1に所破・2に所用という二つの意義があるということです。その理由としては寿量品には文上顕本と文底顕本の二つの義があるからです。ここが方便品とは違うところで方便品は「借文」でしたが寿量品は「所用」です。方便品の文底には南無妙法蓮華経の義がないので「借文」(文を借りる)ですが寿量品文底には南無妙法蓮華経の義があるので「所用」(文を用いる)ということです。また「文」は所詮であり「義」は能詮ですから所詮に約せば所破で能詮に約せば借文ということになります。

◆問う、両種の顕本其の相如何。~

ここからは文上顕本と文底顕本の違いそして文上顕本の中の「体外」と「体内」の説明をし文上顕本を「所破」(破折)する意義を御指南されています。文上顕本とは釈尊の五百塵点劫の成道で文底顕本とは五百塵点劫より以前の久遠元初の成道をいいます。本文の【本地の自行】の「自行」とは本仏の自行自証のことで時間的にはこれ以上遡らないつまり「一番最初」ということです。このうちの文上顕本には更に「体外」と「体内」があります。ここでいう「体」とは文底顕本における南無妙法蓮華経のことでこれを知らない状態が「体外」知っている状態が「体内」ということです。ならば「体外」の顕本だけを破せばいいだろうという思いそうですが、文底の南無妙法蓮華経に対すれば「体内」だろうと「体内」だろうと文上顕本はともに脱益の釈迦仏法の範疇ですから破折するわけです。

◆問う、何んぞ本果を以って垂迹に属するや。

ここは五百塵点劫の釈尊(本果)をなぜ垂迹にするのか?という問いに日寛上人が答えてます。そして

◆此こに相伝有り、略引して之れを示さん。血脈抄に云わく、本地自受用身の垂迹上行菩薩の再誕日蓮等云云。再誕の言上の二句に冠す、若し外用に拠らば今の所問の如く上行の再誕日蓮なり、若し内証に拠らば自受用身の再誕日蓮なり、故に日蓮即ち是自受用身なり。

日蓮大聖人が御本仏である文証を引き更にその理由を、1に「種脱勝劣」(大聖人の下種は釈迦の脱益仏法より優れている)。2,行位全同(久遠元初自受用身の修行と位が大聖人と全く同じ)3,「本因妙の教主故」4,「文証分明」5,「現証顕然」の5つを挙げて説明しています。

◆総勘文抄に云わく、釈迦如来五百塵点の当初凡夫にて御座せし時我が身地水火風空なりと知めし即座に悟りを開き~

ここからは文底顕本の文証である総勘文抄の御文の解説です。本文の総勘文抄の御文を二つに分け「即座に悟りを開き」までが本地自行でこれ以下が垂迹化他であるとして解説されています。そして文底の顕本を【我が内証の寿量品】と名付けると説明され

◆故に知んぬ、能詮の辺の二千余字是れを我が内証の寿量品と名づけ、所詮の辺の妙法五字是れを本因妙と名づくるなり、今所詮を以って能詮に名づく、故に内証の寿量品とは本因妙の事なりと云うなり。

と御指南をされています。この御指南は非常に重要ですよ。【我が内証(大聖人の内証)の寿量品】を読むことが寿量品を読む一番の意義なんです。そして「内証の寿量品」読むとは【能詮の辺の二千余字】を読むということです。つまり寿量品の長行を読むということです。(寿量品の長行は二千字余りです)ですから、創価の自我偈だけの勤行は大聖人仏法の修行として全く意味のない間違えた修行なのです。だから創価の勤行はインチキ勤行だというのです。

◆問う、諸流の勤行各々不同なり、或は通序及び十如提婆品等を誦し、或は此経難持~

ここからは宗開両祖の勤行について述べられいます。諸門流の勤行はまちまちで同じでないとの文者に対し日寛上人は、

◆諸流は名を蓮師に借ると雖も実には蓮祖聖人の門弟に非ず、但是れ自己所立の新義なり、故に蓮師の古風を仰がずして専ら各自の所好に随うなり。

と手厳しく破折されています。今の創価・顕正の勤行などはまさに自分勝手に決めた「新義」という名の邪義で大聖人の名を騙る非門下であると日寛上人は言われてるわけです。

◆但我が富山のみ蓮祖所立の門流なり、故に開山已来化儀・化法四百余年全く蓮師の如し、故に朝暮の勤行は但両品に限るなり

日蓮正宗に伝わる五座三座の勤行こそが大聖人の所立の勤行なのです。創価民の中には大聖人は五座三座なんてしていないバカなこという莫迦がいますが、大聖人は御本仏ですから五座三座は不要に決まっているでしょ(笑)だからこそ日寛上人は【開山已来】つまり日興上人以来ずっと変わっていないと御指南され更に◆開山の勤行全く蓮師の如し。と日興上人以来の勤行は日蓮大聖人の意を受けた正しい勤行であると言われています。そして最後に、

◆汝等の所行寧ろ自立に非ずや。既に宗祖に違う、何んぞ門弟子と云わんや。

と再び自分たちが勝手に決めた勤行をしている異流義を「大聖人門下に非ず。弟子に非ず」すなわち謗法の徒であり逆賊の徒であると破折して寿量品編は終わります。今回もザックリと説明してしまいましたので質問があればコメントにてご質問ください。

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