創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

六巻抄拝読の為の基礎知識⑰(当流行事抄②)

今回は「当流行事抄」の第1章「方便品」編についてです。

◆問う、凡そ当流の意は一代経の中には但法華経法華経の中には但本門寿量品を以って用いて所依と為し、専ら迹門無得道の旨を談ず、何んぞ亦方便品を読誦し以って助行とするや~

最初に無得道である迹門の方便読誦を助行とするのは何故かという問いに対し日寛上人は当流が読誦する方便品は「寿量品が家の方便品」であり大聖人が「予が読む所の迹門」の迹門であると明かし方便品を読誦するのは、1【所破】2【借文】という二つの意義があることを御指南されます。経文等の文句には「文と義」の二辺の立場があり「文」とは「能詮」であり「義」は「所詮」となり「所詮」に約せば「所破」の為、「能詮」に約せば「借文」の為に方便品を読誦するという事になります。しかしそこの二意があっても前後や別々の体ではなく一法に二意を具しています。

◆問う、寿量品が家の方便品とは其の相如何。~

次に先の「寿量品が家の方便品」の「その相」について日寛上人は、1には顕本已前の迹門を体外の迹門と名づけ、これは本無今有の法で、2に顕本已後の迹門を体内の迹門と名づけこれは即ち本有常住の法であると答えています。「体外の迹門」とは戒壇大御本尊より開会された迹門ということです。次に問者は「所破・借文の意で読誦するなら体内の迹門は本門であるのだから体外の迹門に約すべきではないか」と疑難しますが日寛上人は本門が顕れた後(体内)でなければ迹門を破すことができないし本門の義を顕すために文を借りるのだから顕本以前では文を借りる意味もないという趣旨のことを文証をあげて答えます。要するに所破・借文という義自体が顕本以後以後に成立する意義なわけです。

◆問う、若し所破借文と言わば応に体外の迹門に約すべし、若し体内の迹門は即ち是れ本門なり、豈所破借文と言うことを得べけんや。~

ここは「体内の迹門ならば本有常住の法なのだから破折するはおかしい」という「所破」に対する疑難です。それに対し日寛上人は、まづ「体内の迹門」と「体内の本門」の勝劣を示し同じ「体内」といっても「迹門」は所開(水月)であり「本門」は能開(天月)であるのだから本門の理は迹門の理に優れていると仰せになりその後今度は「体外の迹門」と「体内の迹門」を相対し大聖人が破折するところの迹門は「体外の迹門」であり大聖人が読誦するところの迹門は「体内の迹門」であることを御指南されています。

◆問う、顕本已後何んぞ其の文を借るや。~

ここは今度は「顕本以後になんで方便品の文を借りる必要があるのか?」という「借文」に対する疑難です。これに対し迹門とは「本」の垂迹であるからこの迹の文を借りれば当然「本」を顕すことができると答えてます。むしろ「迹」の意義とは「本」を顕すことにあると言っていいでしょう。「本」を顕さない「迹」は何の意味もありません。これは御書と戒壇大御本尊の関係と同じです。御書は戒壇大御本尊を顕すための文でありのだから戒壇大御本尊様への信を取れなければ御書の意義がないのです。つまり創価民が御書を読んでも何の意味もないしむしろ御書を悪用するだけになります。日寛上人も【宗祖の云わく、能開・所開を辨ぜず物知り顔に申し候なり云云。】と「能開・所開」を弁えなければならないと御指南されます。この「能開・所開」を弁えないのがまさにいまの池田創価教学の創価民です。それ故に【曲げて私情に会し己義を荘厳するなり】という異流義・謗法の道に陥るわけです。

◆御法則の抄に云わく~

ここは左京日教の『類聚翰集私』(御法則の抄)の文を取り上げ日教が寿量品を指して「予が読むところの迹門」といっているのではないか?という質問に問題とさてている「本尊得意抄」の執筆の由来をあげ日教の示した表現は大聖人がすでに方便品が「寿量品が家の迹門」であるので「方便品」を「寿量品」と表現されていると答えています。例として「産湯相承事」において譬喩品の文を寿量品としていることを挙げています。

◆問う、日辰造読論の中に当山鎮師の記を引いて云わく、日代云わく~

ここは方便品の読・不読についての日仙・日代のいわゆる「仙代問答」についての話しなどが書かれていますが日寛上人は【所破の辺自ら二意を含む。一には体外の迹門、即ち是れ今日始成正覚の仏の所証の法なり、在々処々多く此の意に拠る。二には体内の迹門、此れ即ち従本垂迹の仏の所証の法なり、読誦の意正しく此こに在り。又借文の辺も又両意を含む。一には近く久遠本果所証の法を顕わすなり、通得引用多く此の意に拠る。二には遠く久遠名字の所証の法を顕わすなり、読誦の意正しく此こに在り云云】と方便品読誦について明快に示されています。

◆問う、今当門流或は但十如を誦し、或は広開長行を誦す。其の謂われ如何。~

方便品編の最後に開三顕一と方便品読誦について当門流では広開三顕一の長行まで読誦することもあるが広開長行まで読誦する理由について説明されています。現在の勤行では「十如是」までの読誦ですがこれは広開長行の意を含んでいます。

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