先日、小野塚さんと未熟さんから「三宝別体式」のコメントがあったので今日はそれについて書きます。「三宝別体式」というのは御本尊の御安置の様式のことです。正宗では御本尊の御安置の様式として「三宝一体式」(奉安堂や自宅など)「三宝別体式」(客殿など)「住持三宝式」(御影堂など)という3つの形があります。「三宝一体式」というのは御本尊だけをご安置するという通常の御安置様式で「住持三宝式」とは御本尊の前に日蓮大聖人の御影を安置する様式。そして「三宝別体式」というのは御本尊を中心にその左右に大聖人・日興上人の御影を安置する様式になります。小野塚さんがお寺でみたのはこの中の「三宝別体式」でご安置している御本尊の御安置様式になります。(私の所属寺院は三宝一体式です)何故このような御安置様式があるのかという前に先に日興門流における三宝の拝し方を説明します。「一体三宝」とは「内体(法体)」に約した立てわけで対して「別体三宝」とは「外用」に「住持三宝」とは「化導」にそれぞれ約した姿です。ですから「別体」「住持」といってもその基本は「一体三宝」にあります。そして「一体三宝の体」はいうまでもなく、戒壇大御本尊=日蓮大聖人でありそれにつながる歴代上人書写の御本尊です。自宅の御本尊の相貌を見れば、中央に主題の南無妙法蓮華経の法宝、その下に日蓮御在判の仏宝、その横に書写された上人のお名前と御在判の僧宝の三宝が一体となって示されています。戒壇大御本尊等の大聖人御真筆にはご歴代のお名前は有りませんがそれは大聖人お一人に仏宝と僧宝が一体になっているし日蓮の御文字に日興上人も含まれている(一体)ですから三宝一体になっています。この三宝一体の御本尊が「法体」です。ですから「一体三宝式」の御安置で十分なのです。では何故「別体三宝式」の御安置をするのかというと、涅槃経に、
■三宝を分別すべからず。此の大乗においては、三帰分別の相有ることなし。所以は何かん。仏性中において即ち法・僧あり。声聞・凡夫を化度せんと欲する為の故に、分別して三宝の異相を説く
と書かれているように「凡夫を善導するため」に本来は三宝は一体ではあるけれど別々に分別して表しているわけです。ですから御影単独で御安置するのは不可です。必ず「法体」である御本尊と一緒に(一体で)御安置します。私たち凡夫は御本尊が三宝一体の法体であるといわれても頭や心で理解していてもなかなかピンときません。ましてや無信仰の人達から見れば御本尊は「板」や「紙」にしか見えません。しかし同じ板や紙でも、それが大聖人や日興上人の姿形をしていたら受け止める人の見方も違ってきます。また信心をしていても実際の御影を見ることよりイメージが湧いて大聖人や日興上人に対する親愛の気持ちが大きくなるのではないでしょうか。初恋の人を今でも好きだけど写真を見ると益々「好き」という気持ちが大きくなる。それが凡夫というものだと思ってます。私なんていつも妻の写真を見ては妻への愛を深めてます(白目)。冗談はさて置き客殿や末寺にはまだ信心が浅い人も、また入信もしていない人も来ることもありますからそのような場所に御影も加えた「別体三宝式」の御安置をするのは育成・折伏においても役に立つと思います。さて日応上人は「弁惑観心抄」の中で、
◇大漫荼羅一幅に於て三宝を具足するを以て別体住持二種の三宝必要なしと云はば三宝に開合あるの義を弁へざるが故なり。夫れ当家所立下種の三宝は久遠元初無作本有の妙法蓮華経より唯我与我の師現はれて事行の信心を顕示し末法但妄の衆生を救済し玉ふ者なれは漫荼羅一幅に三宝を具するは則ち合帰の事相にして別体の三宝は則ち妙法の漫荼羅より開発したる事相なり
と、「一体三宝」と「別体三宝」は開合の違いであると言われ「別体」「住持」の三宝は一体三宝から開かれたものであるからこれら2種の三宝を不要というのは法門法義を弁えていないからであるとご指南されています。御影もまた御本尊から開かれた御本尊の一部であるということです。また「住持三宝」である御歴代上人も然りです。これは「法主本仏論」などという考えとは全く違うのです。にも拘わらず創価の如く住持三宝であるご歴代上人を誹謗するの輩は大謗法なのです。
◆凡そ謗法とは謗仏謗僧なり三宝一体なる故なり(真言諸宗違目)
というわけで、「別体三宝式」も「住持三宝式」も「一体三宝式」も御安置の様式は異なるといえどもそれは開合の違いだけであってその根本は同じだということです。日応上人はそれについて「扇子を開いても閉じても同じ扇子である」と言われています。なるほどそりゃそうですよね。因みに前回の登山の時に初めて御影堂の中に入りました。
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