親が年老いてくると信仰関係なく葬儀やお墓はどうする?という話が自然と出てくると思いますが、これが創価が絡むとややこしくなります。先日当ブログの読者の方から親御さんの兄弟が学会葬で葬儀をしないと代々のお墓に入れさせないと言われたと相談を受けました。自分で購入したお墓ならともかく先代が購入した墓を相続しただけなのに「入れさせない」って創価民ならではの発想ですね。これが一切衆生と世界平和を唱える創価民だというのですから驚くばかりです。創価の墓苑は学会葬しないと埋葬できなんですかね?そんな話は聞いたことないですけど子孫が紛争しないためにも創価の墓苑は取得するのはやめた方が良さそうです。またボクの折伏したO君も親御さんの葬儀の時はどうすれば?創価の墓苑に遺骨を埋葬してもいいのか?と色々と考えているそうです。O君には「そんな事悩んでいる暇があったらとっとと親御さんを折伏して正宗に戻せばいいんだよ。それで全て解決だろ」って言ってます(笑)がそれがすぐにできれば苦労はしないということは重々承知しています。お墓に関しては創価の墓苑だろうと他宗の寺だろうと樹木葬だろうとどこに埋葬しようが何の問題もありません。故人や遺族の感情はあるでしょうがお墓(埋葬場所)自体は成仏と無関係ですからね。ただ葬儀はそういうわけにはいきません。お墓は成仏と無関係ですが葬儀は成仏に大いに関係するからです。他宗の僧侶の引導でも成仏は覚束ないのに、大御本尊を捨てた大謗法の何の修行もしていない創価のオッサンが本尊風の掛け軸に適当な読経をして題目を唱える学会葬なんて地獄へ一直線です。故人も遺族も成仏するのが願いなのに学会葬なんてやった日には目も当てられません。故人に恨まれること必至です。
◆人死すれば魂去り其の身に鬼神入り替つて子孫を亡ぼす、餓鬼といふは我をくらふといふ是なり、智者あつて法華経を讃歎して骨の魂となせば死人の身は人身心は法身生身得忍といへる法門是なり(木絵二像開眼之事)
との御妙判にあるように、どんな人でも死に際しては鬼神がその身に入ろうとやって来ます。そして本人ばかりかその子孫まで滅ぼそうとするわけです。しかし法華経を悟られた智者に弔われることによって鬼神が身に入ることを防ぐばかりか法身として成仏できるわけです。智者である大聖人の弟子の正宗のご僧侶の読経・唱題の引導によって成仏に導かれるわけです。それが日蓮大聖人が定めてことです。大謗法の学会葬は悪鬼・鬼神を呼び寄せるだけですから恐ろしいことです。しかも仏教の教えでは葬儀の僧侶を呼ばなくていい。それが仏教の本義だ。などという嘘八百を並べるのですから最悪です。ですからお墓はともかくとして葬儀は大聖人仏法の信仰者というのであれば正宗のご僧侶に引導していただくのが正しい葬儀といえます。とはいえ、それができればモメないですね。それが出来ないから悩む。そして様々な理由で残念ながら学会葬になってしまうこともあるでしょう。私だって祖母は学会葬でしたし。そのような時は大御本尊に題目を申しあげ、また塔婆を立てすぐに故人に対して正しい追善供養をしてあげればいいと思います。ですから学会葬であっても悲観する必要はありません。ただ、だからといって学会葬に反対もしなければ破折もしないのは間違っています。学会葬を主張する親戚・兄弟に対してはその間違いを指摘し破折し折伏する。そこまでしても仕方なく学会葬になってしまったのであれば大聖人もその人の信心を愛でられ故人を地獄に落とすことはないと思います。私はそこが大事だと思います。先日の読者の方も学会葬を阻止すべく親戚・兄弟に学会の謗法をしっかり話し破折して激怒されたそうでが私はその信心であれば仮に親御さんの葬儀が学会葬になったとしても親御さんは成仏できると思います。ともあれ親族間で法華講と創価に分かれている場合は葬儀や墓地について対立するのは大変な心労を伴いますが、そうした対立をした時こそ一族の中の謗法創価を破折・折伏するチャンスでもあります。もっとも本当はそうなる前に決着つけていですけどね。
(追伸)週末は私用で出かけますのでコメントへのお返事が遅くなるかもしれませんのでご了承下さい。
▼1日1押し期待してます(笑)