創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

欺瞞と偽善の学会葬。

過日、叔父の葬儀に参列した。もちろん学会葬だ。オレも学会葬はたくさん参列しているが今回は本当に酷かった。何が酷いかというと導師を務めた儀典長の勤行・唱題が恐ろしく下手で汚い。ドシロートの学会オジサンの読経だからある程度は仕方ないにせよ今回ばかりは度を越した下手さだ。葬儀は厳粛な儀式なのだから創価ももう少し「人選」して欲しいものである。儀典長くらいはまともな勤行・唱題が出来る人を選んで欲しい。もっとも方便自我偈で済ましているのだから誰がやっても「まともな勤行」ではないのだが。さて。オレは自分の葬儀は所属寺院のご住職に執り行って欲しいとは思っているが、仏法上の話は別として現在流行っている「家族葬」や「友人葬」はイヤな気分にはならない。嫁の祖父は「家族葬」だったし、友人が亡くなった時に「友人葬」に参列させてもらったが当然だがイヤな気持ちにはならなかった。多分、ちゃんと「家族葬」であり、ちゃんと「友人葬」だったからだと思う。ところが「学会葬」はいつでもイヤな気分になる。それはオレが法華講員になる前の学会員時代からだからアンチだからという事ではないと思う。多分、「学会葬」は欺瞞と偽善に満ちているからイヤな気分になるのだと思う。「学会葬」では必ず「僧侶を葬儀に呼ばないこと」が仏法の本義とか、大聖人も葬儀を執行していないとか、戒名は江戸時代から風習だとか言って自分達の執行している「学会葬」をあたかも仏法の本義に則っていると宣伝しているが、まずこれがウソ。こういうウソを言ってまで「学会葬」を正当化する必要もないでしょ。故人の希望で僧侶は呼びませんだけでいい話なんだから。しかもどうしても僧侶を呼びたいと希望すると創価僧を手配するんだよ。自分達で僧侶を葬儀に呼ぶのは仏法の本義ではないといっているのに。こういう欺瞞を平気でするのが創価だ。そして日頃疎遠の僧侶を呼ばないで自分達で葬儀を執行することが「真心こもった葬儀」だと宣伝する。でもさ、叔父の勤行下手の儀典長だって別に叔父たち家族と長年の親交があったわけじゃなくて組織から派遣されてきただけの人でただ同じ学会員というだけで日頃疎遠な僧侶と何も変わらない。まだ他宗の日頃疎遠な僧侶の方が、その宗派での修行を積んでいるだけマトモな読経をする。つまり学会葬だから特別真心がこもっているわけじゃない。そもそも、自分の近しい人の葬儀には皆真心を込めて参列してるに決まっている。逆に「学会葬」なんて名ばかりの「友人葬」で、生前に故人も遺族も会ったことのない友人でも何でもない創価民がくるのだから「友人葬」なんてネーミングからして欺瞞であり偽善だろ。なのでオレは「友人葬」とは言わず「学会葬」と言っている。そして何よりも故人と遺族をバカにしているのが例の長文の池田大作からの弔意だ。池田大作本人が弔意を表したわけではない事はどんなバカでもわかるだろう。創価本部がいくつかあるテンプレを適当に選んでいるだけ。叔父の葬儀での池田大作の弔意の文言は他でも確かに聞いたことのある内容だった。いやテンプレでもまだ池田大作本人が選んでいるならいいが明らかに池田はテンプレさえも選んでいないだろう。各種会合へのメッセージや小説の代作と葬儀の弔意の代作とでは訳が違うと思う。この池田大作の名目での弔意を送るのは、これは故人や遺族に対する冒涜だろ。死者へ対する冒涜行為は宗教団体としては犯罪行為に等しいと思う。これが「真心こもった学会葬」の真実の姿だ。この欺瞞と偽善だらけの葬儀が「学会葬」。一般的な「友人葬」や「家族葬」とは明らかに異なる違和感。僧侶を呼ぶ呼ばない以前の話でここに「学会葬」の気持ち悪さが凝縮されている。生涯を創価に尽くした叔父もこれでは浮かばれないだろうなと思い、叔父の遺影をみながら心の中で大御本尊様に必死に題目をあげていたよ。葬儀のあり方はいろいろあるかも知れないが「学会葬」はやっぱりダメだ。仏法上の話以前に生理的に気持ち悪いのである。生きてる時も死んでからも創価に騙され愚弄されるなんて今の創価民は本当にかわいそうだと思う。


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