来る5月1日から茨城県で聖教新聞の配達が外部委託になるそうだ。茨城県内の創価民宅には【いつも本誌をご愛読いただきまして、誠にありがとうございます。5月1日(金)付より聖教新聞等(聖教新聞・大白蓮華・創価新報・未来ジャーナル・きぼう新聞・公明新聞・公明グラフ)の配達は読売新聞の配達員が行います】とのチラシが配布されていてネットではそのチラシの画像が公開されいる。オレは以前から聖教配達は外部委託すべしと言っていたのでとてもよかっかと思っている。
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とりあえず茨城で試験的に行い、やがて全国で聖教配達は外部委託という流れになっていくのだろう。これで「無冠の友」の消滅も時間の問題になった。創価民にとっては非常に喜ばしいことで祝意を述べたいと思う。創価執行部にとってはほぼタダ働きをさせることのできる無冠の友システムを放棄するのは「もったいない」という思いもあるだろうが外部委託によるメリットもある。まず天下の読売に委託することによって創価批判記事を押さえ込むことができる。現在聖教新聞の印刷を請け負っている毎日新聞が創価に好意的な記事を書いたりして創価に忖度しているが読売を抱え込むことができれば毎日よりも遥かに効果はある。創価も公明もきな臭い団体であるから大新聞と組めたのは大きいだろう。また「池田センセが最も信頼をしている無冠の友」の撲滅は現執行部の「池田有名無実化路線」の戦略にも合致している。多少のコストはかかるだろうがメリットもそれなりあると思われる。ただ現実は「無冠の友システム」の崩壊で仕方なく外部委託に切り替えたということだろうと思う。聖教配達員さんの中には使命感に燃え(使命があるように騙され)て配達している人もいるだろうが、現実はどの組織でも聖教配達員を確保するのに苦労している。オレの嫁が聖教配達をしていた四半世紀前から正配はもとより代配(週に1度正配の代わりに配達する人)ですらやりたいという希望者はいなかった。だから一度、配達員を引き受けてしまうと脱会したり引越ししたりしない限りはずっとやり続けることになる。配達員さんが10年20年と変わらないのは決して本人が辞めないのではなく誰も引き受けてくれないというのが実情である。高齢者の配達員が多いのはそれが理由である。その配達員さんは40代・50代の頃からやっていてその後引き継ぐ人がいないまま60代・70代になってしまったわけである。そうでなければ後期高齢者の会員に聖教新聞の配達なんて依頼するわけがない。そんな年配の会員に新たに聖教配達を依頼してるとしたら非常識も甚だしい。そんなわけで全国的に聖教新聞の配達員は枯渇してて今後も十分な人数の配達員を確保できる見通しもないだろう。そうなると金は出したくなくが外部委託するしかないのである。もっとも新聞なんていう「紙媒体」は遅かれ早かれ消滅する媒体だろうからあまりにも金がかかるようなら「聖教新聞」そのもをヤメるということになると思う。ネット配信だけで十分だしそれなら金もかからない上に原価もバカ安で紙媒体を発行するよりも利益率は莫大に大きい。ただ一家で複数部を購読というようなことはできないのがイタイところか。それはさて置き、「無冠の友は功徳が大きい」などというのが大嘘だったということはコレでハッキリした。本当に「大きな功徳」が出るのなら非会員の読売新聞の配達員さんにやらせるのは会員から功徳を奪うことになる。会員さんに聖教配達の功徳を受けさせる方法はある。創価学会と配達員さんがちゃんとした雇用契約を結び世間の一般的な報酬や休日を与えれば創価民のなかでも定職をもたない会員がゴマンといるから配達員として雇用して欲しいという会員も多いと思う。そうやってあげればいいだけの話だが、金銭的なことや事件事故の責任、また解雇のトラブルなどを考えるとそれなら外部委託の方が安上がりだしメリットがるということなんだろうと思う。つまり会員に功徳を受けさせるよりも安上がりでメリットのある外部委託にしたということだ。また「本当に配達に功徳があるのなら」今回の執行部の外部委託に関して「俺たちの功徳を奪うのか」という声があって然りだと思うがソレもない。つまり聖教配達には「功徳なんてない」ということを創価執行部も地元の幹部連中も認めたということになる。可哀想なのは「功徳がある」と騙され続け「福運が積める」と思い込まされて毎日大変な新聞配達をしていた「無冠の友」の会員さんだ。オレの嫁も「無冠の友」だったからそのご苦労はよくわかる。本人だけなく家族も巻き込まないとやれないのが「無冠の友」だから。願わくば全国の「無冠の友」の会員さんはとっとと創価に搾取されているだけの新聞配達を止め、創価から離れ自由な生活を送ってもらいたいと思っている。もう早朝に起きて危険やクレームにさらされながら「功徳」も「福運」もなにもない無駄な事はする必要はない。