創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

本弟子六人を選定した理由(寝言丸さんコメントの件)

まず本弟子六人とはいわゆる日興上人と他五老僧で、日興上人が「宗祖御遷化記録」に書き残されています。上から入門が新しい順に6人の名前が書かれているのですが、その前に最初に「弟子六人の事 不次第」と書かれてます。「不次第」とは簡単にいうと平等ということです。この言葉をもって身延などは六老僧に差別はないとし日興上人への血脈相承を否定するのだけど、その解釈は全く逆で6人全員が全く平等であるならあえて「不次第」と記す必要がありません。これについては日淳上人が次のようにご指南されています。

◇六弟子を定めて法臘の順に記録なされたが、それは自ら順位を示すものである。然るに大聖人の思召しは平等にあらせられた故に、わざわざ「不次第」と御書入れがあつたと拝するが妥当であらう。しかし、もう1歩進んで考へると、「不次第」と仰せられしは上を抑えて下を上げてをると解釈できる。さすれば、次第不順で相違を法臘以外に御認めなされたからといふべきである。

つまり入門の順番(法臘)は早い遅いはあるけれど入門の順番は関係ないという事を示すために「不次第」と書かているわけです。「遷化記録」の前にすでに日興上人への血脈相承は完了しています。日興上人は入門順でいうと3番目にあたります。その日興上人への血脈相承を否定することのないように「不次第」という言葉をあえて書いてるとうことです。つまり入門の順番は全く関係なく日興上人に血脈相承をしたんだぞ。ということです、日寛上人も「当流行事鈔」の中で、

◇問う、有る人難じて云わく、日興上人は上足の第三なり、何んぞ是れ結要付嘱の上首ならんや云云。此の難如何。 答う、六老の次第は受戒の前後に由り、伝法の有無は智徳の浅深に依る、故に孔子は道を曽子に伝うるなり、玄弉は法を慈恩に付す、並びに嫡弟に非ず、誰人か之れを難ぜん云云。

と言われています。では何故五老僧まで本弟子と定めたのか?「遷化記録」の末尾に「右六人者本弟子也、仍て向後の為定むる所件の如し」とあるように「今後のため」です。今後のためとは教団の維持と発展のためです。もっと簡単に言えば「法体の折伏」はすでに完了しているのだから「化義の広宣流布」のためです。つまり弘教のために本弟子を6人定めたわけです。これは「化義」の相承であり総じて信心の血脈なのです。対して日興上人への血脈相承は「法体」の相承であり別しての法体の血脈です。この立て分けが非常に重要です。そしてこの本弟子6人を選定したことこそ大聖人仏法においてもっとも重要な「化義」だということです。日興上人の「佐渡国法華講衆等御返事」に

◇うちこしうちこし直の御弟子と申す輩が、聖人の御ときも候しあひだ、本弟子六人を定めをかれて候。その弟子の教化の弟子は、それをその弟子なりと言はせんずるためにて候

と書かれています。これは手続の師の大事を言われているのです。手続の師として本弟子六人を選定したのだと思います。この手続きの師を選定しておかないと上記の御文のように「自分は大聖人の直接の弟子だ」と言い出す信者が溢れるます。古くは日円(波木井実長)は日興上人に宛てた手紙に【日円は、故聖人の御弟子にて候なり、申せば老僧達も同じ同胞にてこそわたらせ給い候】と書いて自分も日興上人たち老僧もみんな大聖人の弟子だから平等だと書いてますし、現在では創価大作達創価民が【日蓮直結】などとほざいていますがそれは大聖人仏法の化義ではなくむしろ【直結信心】を制止し戒めているのです。大聖人仏法の化義の広宣流布根幹・大聖人門下の教団の在り方とは、

◇この法門は師弟子をただして仏になり候。師弟子だに違い候へば、同じ法華を持ちまいらせて候へども、無間地獄に堕ち候也。乃至案のごとく聖人の御のちも、末の弟子どもが、誰は聖人の直の御弟子と申す輩多く候。これらの人は、謗法にて候也。(佐渡国法華講衆等御返事)

との日興上人のご指南にあるのです。大聖人(師匠)直結が何故ダメかといえば弟子側の機根が異なるからでありそれによって己義・邪義が教団内に生まれ尚且つそれを捌く人がいない。そうなれば広宣流布どころか大聖人仏法が隠匿されてしまいます。今の創価を見れば一目瞭然ですね。同じ「池田先生」の弟子を名乗りながらその解釈はバラバラで全員が「我こそは真の弟子」と名乗って好き勝手にやっている。大聖人は自身の教団が将来こんな創価のような状態にならないように本弟子六人を選定したのだと思ってます。もちろん五老僧は退転しそれに従って退転した信者もいたでしょうがそれも大聖人も分かっていたとは思いますが、未来の事を見据えて「師弟相対」という大聖人仏法における根幹の化義のありかたを示すことにより将来の退転者を防ぐとともに退転者を見破る方途も示されるという意味で「本弟子六人」を選定したのだと思います。この話は書くとすごく長くなってしまうので後は各人の研鑽と思索にお任せしますが、一番重要な事は「本弟子の選定」とは化義のための相承・弘教のための相承でいわば「横」の広がりで、日興上人に対する法体相承は「令法久住」のための相承であり「縦」の永遠性だということ。そして中心は「法体」であり「「令法久住」です。化義・弘教といっても「法体」が無ければ成り立ちませんからね。法体の血脈が根本にあって初めて信心の血脈が成立するわけです。甚だ簡単ですがこれを今回の私の回答とさせていただきます。


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