創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

続々・祈り方

「祈り方」について書いたのであと少しだけ自分のことも含めて昔からよく質問されたことを書きたいと思う。今まで書いたとおり「祈り」とは「こうでなければいけない」という事はないの前提として、よく聞かれるのが「唱題時間」なんだけどこれもまた特に「これくらい唱題しなければいけない」ということも御書には特に書かれていない。唱題についてよく引用される御文として、

法華経の意をもしらず只南無妙法蓮華経と計り五字七字に限りて一日に一遍一月乃至一年十年一期一生の間に只一遍なんど唱えても軽重の悪に引かれずして四悪趣におもむかずついに不退の位にいたるべしや、答 えて云くしかるべきなり

という御文があるが生涯で一遍だけの題目でいいのは過去世に謗法がなかった人の話で末法の凡夫の我々はやはり日々の唱題行が大切である。唱題時間について以前も書いたが日達上人は「一遍でも少なからず、百万遍でも多からず」とご指南されている。勿論唱題は多いほどいいのだろうが唱題時間よりも題目をあげたい。という心が重要なのであって半強制的に「やったり」「やらされたり」の唱題では例え10時間唱題したところで意味がない。池田先生なんて「勤行・唱題0分」でも永遠の指導者だぞ(笑)まぁ時間ではないが「勤行・唱題0分」ではお話にならないが時間にとらわれず、題目あげたいときに、あげたいだけ唱題すればいいと思う。

あと唱題中に「雑念」がわいたり、逆に唱題に集中しすぎて何も祈っていないってこともあるだろうけど(俺は雑念ばかりだけど)それも気にすることはない。

◆祈祷に於ては顕祈顕応顕祈冥応冥祈冥応冥祈顕応の祈祷有りと雖も只肝要は此の経の信心を致し給い候はば現当の所願満足有る可く候 (道妙禅門御書)

と御聖訓にあるように、祈りには「顕祈顕応」」「顕祈冥応」「冥祈冥応」「冥祈顕応」の四種類ある。このうち「顕祈」というのは実際に祈っている事で「顕応」とはすぐに結果がでるころで「冥応」とはまだ結果は出ていないが将来必ず結果として顕れるという事。そして「冥祈」とは実際には祈っていない事である。信心をしていて「思ってもいなかった功徳がでた」という体験があると思うかこの「思ってもなかったこと」が「冥祈」だ。つまり何が言いたいかというと「雑念」があろうと「具体的に祈っていない」だろうと大御本尊は全てを見通し我々が具体的に祈ってないことも願いとして叶えてくれるというこだ。祈ってないことすら叶うのだから祈ったことが叶わないということはないんだね。だから何も祈らずだた題目をあげているだけでも功徳は顕れる。大御本尊を信じいれば「意」が唱題すれば「口」がご本尊の前で端座合掌すれば「身」がこうして身口意の三業で南無しているわけなので「雑念」だとうと「無念」だろうと顕われない功徳はないわけです。

「祈り方」とタイトルつけたけど、要は創価幹部のいうような「祈り方のテンプレ」なんてないということです。ただ一つだけ勤行で重要なことがあります。それは「御観念文だけは雑念なくしっかりと読む」ということです。ここが「祈り方」つまり勤行・唱題の時の重要ポイントです。がしかし・・創価には「御観念文」がないので結局どんな風に祈ろうと、どんなに長時間祈ろうと全て「カラ題目」になるんですね~。残念ですね創価の皆さんは(笑)


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