創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

続・祈り方

以前「祈り方」という記事を書いたが今回はその続きと言うか解説と言うかそんな感じの事を書いてみる。

▼過去記事は▼

祈り方

基本的に「祈り方」についての考えは以前記事に買いたことと全く変わっていない。創価活動家が異議を唱えてきたけれど祈りは好きに祈ればいい。他人の幸福も本気でそう思うならそう祈ればいいが、相手の幸福を祈らなければ折伏できないということはない。「折伏がしたい」とだけ祈っていても折伏はできる。つまり何が言いたいかと言えば「無理して思ってもいないことを祈る必要はない」し「無理して思ってもいないことを祈った」からといって自分の祈りが叶いやすくなったりしないということだ。そもそも祈っている相手はご本仏なのだから「無理してウソ松の祈り」をしたところで全てお見通しなのである。また「広宣流布しますから○○してください」なんて祈るのはご本仏と取引しているようで「いやらしい」そんなバーターしなくてもご本仏は祈りを必要な時に叶えてくれるから好きなような祈ればいいのである。悩んでいる時は悩んでいると。迷っている時は迷っているとその時の想いをご本仏にぶつけることが「本当の祈り」である。創価幹部・活動民たちは「目標を決めて具体的に祈れ」とよく指導するが、「目標が決まっていて」尚且つ「具体的な方法が分かっている」のなら、もうそれは悩みでも苦しみでもなんでもないからあとは「結果が出ますように」と祈る以外他に祈ることなどないのである。人の苦しみとか悩みというのは「迷っていて決められない」ところに原因がある。「目標」を定められるくらいなら誰も悩まないし苦しまない。それなのに「目標を決めて具体的に祈れ」なんて指導されてもそれが出来ればくろうしね~よって話なんだな。いいんだよ。何も決められなくても。迷い続けても。

衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり(一生成仏抄)

◆悟るを仏と云い之に迷うは衆生なり(三世諸仏総勘文教相廃立)

とのご聖訓にあるように「迷う」のが凡夫なのである。そして大聖人の仏法とは「即身成仏」なのだから凡夫のまま成仏できるんだよ。毎日迷って祈ってを繰り返しているうちに「迷っていた自分」のままで祈りが叶う。それが即身成仏ってヤツなんだから「迷いの自分」のままの姿で御本尊に向かうことが大切です。

そんな感じで「祈り方」に「これがいい」なんてものはない。ただし「これじゃダメ」っていうのはある。その「ダメ」な祈り方の最たるのが「創価の師弟の祈り」である。先月の聖教新聞に掲載されたいたが(以下太字は聖教新聞から引用)

創価の師弟の祈りは必ず成就

池田先生は本部幹部会のメッセージの中で、「よき師と・よき檀那(よき弟子)と・よき法と此の三寄り合いて祈を成就し国土の大難をも払ふべき者なり」(御書550ページ)との御文を通して、「妙法と共に広布の大誓願を貫く創価の師弟に、成就できない祈りはありません」と述べ、異体同心の団結でいよいよの大前進をと呼び掛けてくださいました。

こういうのを創価では「師弟誓願の題目」なんて呼んでいるが、こんなもん全くのデタラメです。そもそも御書中に「師弟誓願の題目」のことなどどこにも書いていない。大聖人が「祈り方」としてご指南されているのは「一心に御本尊を信じて題目をあげる」この一点だけなんだよ。「師弟の祈り」云々なんてことは直接的に言われたことない。大作が上記の「法華初心成仏抄」を引用しているがそもそもここでいう「よき師」とは大聖人のことであり創価大作の事ではない。しかもよき檀那の部分にわざわざ「よき弟子」などと加えている創価流である。この御文で言うなら大作は「よき師」ではなく「よき檀那」に分類されるのである(悪しき檀那だが)大聖人が言う所の師弟の祈りとは、

◆師とは師匠授くる所の妙法子とは弟子受くる所の妙法吼とは師弟共に唱うる所の音声なり(御義口伝巻上)

というのが根本なのである。さてここで「師」というのは「弟子」に妙法を「授ける」人をのことをいうのである。「妙法を授ける人」というのは当然「妙法を所持している人」である。妙法を所持していなければ授けることはできないからね。妙法という法体を所持している人はご本仏以外は存在しないので「師」とは日蓮大聖人であり、大聖人の色心二法の体である戒壇大御本尊というのが根本なのである。もちろん日興上人以下の御歴代も大御本尊より法体の血脈を受けれられているので時の「師」ということになるが、根本の師は大御本尊(大聖人)なのである。つまり「師弟の祈り」というのは、大御本尊を信じて題目を上げるという事に尽きるわけだ。そうであるならば「祈りは必ず成就」する。しかし「創価の師弟」というのはイコール根本の師(大御本尊)を捨てることだから、創価の師弟の祈りは絶対に成就しない。

創価活動家が指導する「創価の師弟の祈り」なんていうものは本当にインチキなのだが、本当に悩んでいる人はコロッとそのインチキに騙される。「池田先生にお応えします」なんて馬鹿げた祈りをするわけ。で魔の通力で悩みが解決されたように思えると事もあろうか「大作」や「創価」に感謝し、創価大作に報恩感謝とか言い出すわけである。この「師弟誓願の祈り」という創価指導もまた創価のMCプログラムの重要なコンテンツなのである。こういうインチキ題目指導にはくれぐれも騙されないで欲しいと思う。

大作や創価の感謝なんてしなくても、毎日祈ることがコロコロ変わろうと、何も腹が決まらなくても、いまの自分の気持ちを素直にそのまま大御本尊に祈ればいいのです。私なんて毎日御本尊に愚痴ったり泣き言いってますよ。それだって祈りは叶いますから大丈夫です。


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