創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価教学じゃない御書講義(2019年12月座談会御書・兄弟抄)

設ひいかなるわづらはしき事ありとも夢になして只法華経の事のみさはぐらせ給うべし、中にも日蓮が法門は古へこそ信じかたかりしが今は前前いひをきし事既にあひぬればよしなく謗ぜし人人も悔る心あるべし、設ひこれより後に信ずる男女ありとも各各にはかへ思ふべからず

今年最後の座談会御書は「兄弟抄」です。やや長めの御書だけど「兄弟抄」には様々な法義が書かれているので1篇を通して研鑽するのに適した御書ですね。モチロン創価教学では何の意味もないけど、ちゃんと研鑽するには良い御書です。今回の御文はその兄弟抄の最後の方に書かれている御文です。今回のポイントは2つ。まず冒頭の

◆設ひいかなるわづらはしき事ありとも夢になして只法華経の事のみさはぐらせ給うべし

ですが、この「いかなるわづらはしき事」とは兄弟抄に書かれている三障四魔のことです。三障四魔というとなんだか特別な事だと思っている人もいるだろうけどそうじゃなくて我々の日々感じる苦しみや悩みなど信心を退転させる出来事は全て三障四魔の働きなんですね。「煩わしい」ことばかりじゃなく世間的な楽しみもそれによって信心が退転してしまえばそれは三障四魔です。そのような出来事があっても退転なく「只法華経の事のみさはぐらせ給うべし」と言われているわけです。で、創価教学だとこの御文中の「法華経」という所を、「この信心」とか「この御本尊」とか「広宣流布」とかイカレポンチだと「池田先生」「創価活動」と変換してしまうわけですが、ここでいう「法華経」というのは次下に日蓮が法門」と明記されるのだから当然この部分の「法華経」というのは「日蓮が法門」のことです。「この信心」とは「日蓮大聖人の法門」に対する信心です。創価がいう「この」というあやふやにな誤魔化しに気をつけましょう。さてでは、「日蓮が法門」とは何かというと、

◆総じて御心へ候へ法華経と爾前と引き向えて勝劣浅深を伴ずるに当分跨節の事に三つの様有り日蓮が法門は第三の法門なり、世間に粗夢の如く一二をば申せども第三をば申さず候、第三の法門は天台妙楽伝教も粗之を示せども未だ事了えず所詮末法の今に譲り与えしなり、(常忍抄)

とのご聖訓にかかれているように、「天台・妙楽・伝教も説いていない第三の法門」です。この第三の法門というのは教学的に言うと種脱相対の法門のことであり「下種仏法」であり「本因妙仏法」のことです。そしてその体を尋ねれば、

◆問うて云く天台伝教の弘通し給わざる正法ありや、答えて云く有り求めて云く何物ぞや、答えて云く三あり、末法のために仏留め置き給う迦葉阿難等馬鳴竜樹等天台伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり、求めて云く其の形貌如何、答えて云く一には日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし(報恩抄)

と仰せの通り「三大秘法」のことです。そして本文中の「はぐらせ給うべし」というのは本門の題目を表現している言葉ですから「法華経」とは自ずと「本門戒壇の大御本尊」であるということは明確なんです。つまり三障四魔に煩わされるようなことがあっても「本門戒壇の大御本尊」の事だけを信じて題目を唱えなさい。というのがこの部分のポイントです。創価流変換でも「題目」と「御本尊」とか言うだろうけど肝心なのは「どの御本尊を信じて題目を唱えるか」という事なんですね。大御本尊を捨て創価カラコピ本尊風掛け軸を信じて題目をあげても大聖人に対する背信行為でしかない。いかにいわんや「大作」や「創価」のことなど思う題目など謗法にしかならないということを理解しましょう。いいですか「戒壇の大御本尊」の「事のみ」ですよ。そこには創価大作は必要ないのです。

ポイントの2点目は最後の

◆設ひこれより後に信ずる男女ありとも各各にはかへ思ふべからず

です。これはどれだけ信心する人が増えてもあなた方に代わる人はいませんよ。という大聖人の慈愛溢れるお言葉です。もちろんこの言葉は池上兄弟を特別扱いしたわけではなくご本仏から見れば信心をしている全ての一人ひとりを「かけがいのない人」としてみていて下さっているということです。だからこそ我々一人ひとりの苦悩を聞いてくださり解決してくれるのです。これがご本仏のもつ三徳なんです。創価は自分達の事を「創価仏」などと自称してはいるが彼らがやっていることを見てみなさいよ。組織に歯向かえば組織を攪乱したといって査問をし活動停止にしたり除名にしたあげく口汚く罵る。何も創価本部だけじゃない創価活動家だって同じよう事をやている。またネット上でよく見られるが創価を批判したり宗門を擁護するような発言をすれば同じ学会員でありながら「日顕宗」と呼び「創価を辞めろ」と言い放つ。俺もまだ創価だった頃にネットで散々言われたものだが、この御文に書かれている大聖人の言葉と全く正反対に会員を粗末にし好き勝手に除名するような連中が「仏」名乗るななんてバカにするのもたいがいにせいよ。と思いますよ。一体創価本部やバリカツ達のどこに「一人を大切にする」気持ちがあるのかってことだよね。同志と呼んでた会員が処分されてもその人を擁護しようともしない。自分は処分された会員の事は何も知らないのに大本営発表に乗っかって「裏切者」「反逆者」と言いふらす。それが大聖人仏法を信仰している人達にすることなのかって話だね。そんな創価の連中はさしずめ今回の御文の次下に書かれている

◆始は信じてありしかども世間のをそろしさにすつる人人かずをしらず、其の中に返つて本より謗ずる人人よりも強盛にそしる人人又あまたあり

の連中だ。戒壇の大御本尊と血脈相承が根本と散々行ってきたのに「学会世間」からハブられるのを恐れて一般世間の人達よりも狂ったように大本尊や法主上人を誹謗する姿はまさに釈尊在世の反逆者・善星比丘の末裔そのものの姿であり無間地獄行きは確定だろう。本部や幹部の意に沿わなければ処分されるような「創価仏」の所に身を寄せていて一体何の幸福があるのか?いまこそ一人ひとりを「かけがえのない人」と抱擁してくれる大御本尊(大聖人)も許へ戻ることが大切だと思う。今回の御文をよく読んで、創価と大聖人とどちらを信じた方がいいか。どちらが信頼するに値するか。創価民の人達には良く考えてもらいたいと思うわけです。大作だって学会の同志だって創価の組織だってアナタを守ってくれなし助けてくれないよ。


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