創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

ありがち折伏(命は永遠なのか)

前記事で「死後の生命」についてかいたので今日は「生命は永遠なのか?」という話を書いてみる。この「生命は永遠の続くかどうか」というお題は折伏時にはありがちなお題でもある。

昔、創価創価幹部が部員さんの友人を折伏している時に「生命は永遠に続く」という話をしたら、その友人君は「僕は生命は永遠に続くとは思わない」と反論。創価幹部はどうすんのかなぁ~って思って聞いたいたら、そこから「生命は永遠に続く」論を色々と話し始めた。でも友人君はそんな創価幹部の話は信じないといって話は平行線になり結局折伏が決まらなかった。まぁ折伏現場で「ありがち」な話だ。友人君曰く「死後に生命が続くなんて証明されていない」という当然の反論。そんな友人君にいくら「生命は永遠だよ」っていった所でコンセンサスが取れるわけない。

この時の俺はぶっちゃけ「眠たい」という心境だった。だって「生命は永遠か否か」なんて誰も証明できないんだから答えは「分からない」以外にないからだ。永遠とも証明されてなければ永遠じゃないとも証明されていないのだから「分からない」が正解だろう。なのに創価幹部氏は「永遠である」ということを一生懸命論証しよとしているし、友人氏は「永遠じゃない事」を必死で訴えているのだから眠たくもなるってもんだ。「分かんない」でいいじゃね~か。死んだ後に命が続くかどうかなんて誰にも分かんね~よ(笑)そんなこと言ったら話が終わっちゃうと思うかもしれないが、むしろ分かんね~からこそ信心しようよって話だよ。信じるとか信じないとかのレベルではなくて「どっちに賭けた方がリスク回避できるか」という話なんだよ。

例えば信心を一生やったけどあの世とか来世とか無かったとする。それで一体何のデメリットがあるのか?五座三座の勤行して一日約1時間。ご供養はしてもしなくてもどっちでもいい。勤行ムリだったら朝晩題目三唱だけなら一日10秒。この程度の時間と金を今世に失うだけだ。じゃぁ逆に信心をせずに又は謗法を犯して万一あの世とか来世があったらどうする?そりゃ悲惨だろう。そうやって冷静に考えれば「来世は無い」に賭けて信心を否定するよりも「来世はある」に賭けて信心をする方がよほど理に適っていると俺は思うわけだ。まぁ保険みたいなもんだな。車を買う時ほとんどの人は保険に入るだろ。それは「事故を起こす」という方にベットしてるからだろ。でも「100%事故を起こす」という確証は全くない。事故を起こさなければ保険料は無駄払い。それでもその保険料を無駄だとは思わない。仮に無駄と思っていても毎年保険を掛ける。その理由を多くの人は「安心料」だという。そこまで分かっていながら自分の死後に関するリスクマネジメントにはとんと無頓着なのが本当に不思議だよ。交通事故と違って人間は一生のうちににからなず一度は死ぬ。なのに何の根拠もなく「死後の世界などない」と思い込める発想が俺には理解できない。中には知ったかぶりして「信仰なんて必要ない」と発信し他人に進めるヤツもいる。よくもそんな無責任なことを言えるなぁと感心するよ。どっちにしても来世があるかないかはどちらも断言できないわけだから、それなら「生命は永遠で来世も存在する」と仮定して生きる方がそれを否定して生きるよるも合理的だし安心感も得ることが出来ると思うのだが。

◆されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべし(妙法尼御前御返事)

との大聖人のご金言にあるように、人間は必ず死ぬ。この「死」に対してどう捉えるのかによって「生き方」が変わる。そしてその「生き方」によって今世の(俺的には来世以降も)幸不幸が決まる。だからこそ「臨終」の事をまず先に「習う」ことが大切だろう。「生命は続く」と思って(賭けて)信心をする。信心をすればなるべく正しい行いをしようと思う。なるべく正しい行いして死んだ後に生命が残らなくても一体何の「損」があるのかって話なんだよな。

いずれにしても「生命が永遠か否か」なんてことは折伏においては論点にならないし「生命が永遠である」ことなど論証する必要もない。「永遠だった場合」と「永遠じゃなかった場合」を比較対象すれば、普通に考えれば「永遠である」に賭けた方が絶対的にリスク回避できる。そのことを折伏では伝えるのがいいと思う。折伏でこの話題が出た時は俺は必ずそうしている。だって何度も言うけど死んだことが無いから死んだ後の事なんて分からないから適当なこと言えないじゃん。もちろん信仰も正しく大聖人の仏法を信仰するのが一番なのだが、その話はまた長くなるのでそのうち機会があればね。


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