創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

化義をバカにする学会員さん

「くまちゃん念珠」だとか「壁掛け仏壇」だとか

わけの分からないブツが堂々販売されていて

それを黙認する創価本部。

本当に信心がないんだなぁってつくづく思う。

活動家諸氏に言わせれば仏壇仏具にキマリはない。という事なんだろう。

この連中は、なんでもかんでも

「それは化義だから信心とは直接関係ない」って言うんだよね。

そういってなんでもかんでも自分たちのやりたいようにやる。

その最たるものが、いまの「短縮勤行」だ。

「化義だから」「御書にかてないから」

そんなことを言っては化義を変える。

別な言い方をするなら化義をバカにしているわけだ。

でもね。化義こそ信心。化義即化法なんだよ。

仏法を信仰することを「仏道」ともいうけど

この「道」とはなんだろうね。

仏道以外にも、「柔道」「剣道」「華道」「茶道」今話題の「相撲道」

いろいろが「道」があるけど、

この「道」というのものは正体は何なのだろう?

俺が思うには、それは所作だと思うんだよね。

スポーツならば時代によってルール変更があっても然りだが

でも「ルール」が変わっても変わらないもの。

そういった所作を指して「道」と呼ぶのではないだろうか?

例えば柔道や剣道。

礼に始まり礼に終わる。というが

「礼」はその競技とは直接関係ない。

それでも「礼節」を重んじる。

だから「道」と呼ばれる。

白鳳だってどんな立会いしようと勝てばいい。

スポーツや娯楽だったらそれでいいわけだ。

でも「相撲道」という場所から見た時に、

それは「相撲道」から外れた外道にうつる。

「勝てば試合に関係ないことはしなくていい」

それを「道」と呼べるだろうか?

俺にはそれを「道」とは思えない。

信心もまた同じである。

信心と言った所で「目には見えない」のである。

目に見えない信心を証明するのには

目に見える立ち振る舞い・作法以外

に信心を判断する方法はないのである。

つまり、化義を大切にすることが仏道修行であり

ご本仏を大切にする心のことであり

信心が清らかであることの証明なのである。

大聖人は一生成仏で、

◆然る間仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひ ねるまでも

皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり

とご指南されている。

唱題の時に姿勢や経典の読み方(勤行)

お樒をお供えしたり灯りをともしお線香をたく。

そうしたことすべてが「功徳善根」すなわち信心である。ということだ。

日有上人の化義抄にも

◇行躰、行儀の所は信心なり、妙法蓮華経なり、

而るに高祖、開山の内証も妙法蓮華経なり、

而るに行躰の人をば崇敬すべき事なり云云。

とのご指南もある。

「行躰、行儀」すなわち、正しい化義の実践が信心である。という事だ。

目には見えない信心が化義の中に確かに存在するするのである。

いや化義の中にしか事実としては存在しない。

これこそが大聖人の「事の一念三千」の信心ではないか。

短縮勤行・イカサマ御祈念文からはじまり

塔婆や戒名不要論。

果てには、ビニール樒に三具足なしの壁かけ仏壇などなど。

「化義だから直接関係ない」などと

能書き垂れて破壊してきたのが今の創価である。

化義の破壊は自身の信心の破壊であり

それは自身の幸福への道。の破壊なんだ。

そんな人間がいくら「信心」を語ったところで

単なる屁理屈でしか過ぎない。

いや大聖人仏法を語る資格もないと思う。

創価活動家諸君!

キミ達の「信心」とは具体的になんだね?

選挙や新聞啓蒙かね?

「勝てば何をしてもいい」というのかね?

それは、仏道ではなく単なる趣味の世界だ。

それこそ、選挙活動や新聞啓蒙なんて「御書のどこにも書いていない」だろう。

勤行や御本尊へのお給仕も、

ちゃんと「しようとしない」

それを化義だから。なんてしたり顔で言う学会活動家くん。

貴方たちがどれほど唱題しようと学会活動しようと

貴方たちには、「信心」の欠片もないと断言する。

俺たちの広宣流布は「化義の広宣流布」なんだよ。

まぁ、今の創価にはそもそも「法体」そもそもがないから

化義なんてどうでもいいのだろうが

学会員さんには教えておくよ。

自分の信心が正しいか間違っているか

それが一番わかるのは、

自分の所作。行躰、行儀だよ。

それが、貴方の信心の全てなんだよ。


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