牡丹さんから「一凶」についての話をしてもらったので
今日は「一凶」について書いてみる。
「一凶」と言えば立証安国論に書かれている
◆如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには
の「一凶」というわけだが
この「一凶」であると、散々と書きなぐっている。
その理由として、正宗は「法主信仰」「相続差別」をしたり
創価を破門したりしたから「一凶」であるというわけだが
全くもって、御書を利用した「いいががり」で
少し基礎教学があれば
またはきちんと立正安国論を読めば
「一凶とは日顕宗だ」なんていう
創価や創価活動家の主張がいかにデタラメであるかすぐわかるはずだ。
立正安国論を通しで読めば分かるように
ここでの「一凶」とは具体的には念仏とそれを広めた法然を指している。
その理由は法然の説いた念仏は
「背正帰邪」の教えであるからだ。
冒頭の神天上法門のキモはこの「背正帰邪」にある。
◇一、世皆みな正しょうに背そむき人悉ことごとく邪悪に帰す文。
今この八字肝要なり。別しては「背正帰邪」の四字肝心なり。邪正の相対は題号の下の如し。正とは三箇の秘法の事なり。これ元意なり。(立正安国論愚記)
全ての仏と法を衆生に捨てさせた。
なかでも仏の出世の本懐である法華経を捨てさせたのは
一切衆生を不幸にする根源であることから
法然と念仏を「一凶」と断じたわけだ。
「一凶」とは「仏の出世の本懐」を
人々に捨てさせる人と法の事を指す。
仏の出世の本懐とは三大秘法をいい。
大聖人の出世の本懐とは戒壇大御本尊に
究竟されるのは言うまでもない。
つまり、大聖人の言われる「一凶」とは
大御本尊への信を捨てさせる人間やその思想を言う。
さて、ここで翻って見てみると
日蓮正宗においては、いわゆる「日顕」もだれも大御本尊を捨てていない。
捨てないどころが今でも僧俗一致して守っている。
方や創価は大御本尊を受持の対象から外したにもかかわらず
自分たちは間違っていないと多くの詭弁を弄している。
大御本尊への信仰を守っている教団と
大御本尊を受持しないと明言している団体
どちらが「法然」なのか?
どちらが「謗法」なのか?
どちらが「一凶」なのか?
普通に道理を理解できる人なら言わなくても分かるはずだ。
そう、「一凶」とは、大作センセと創価学会の事以外にはないのだ。
そんな、大作センセや創価を破門した宗門になんの咎があるだろうか?
そもそも信徒を破門することは「謗法」でもなんでもない。
また「法主信仰」や「僧俗差別」が仮に存在していたしても
これまた「謗法」ではない。
逆に、「麗しい人間同士」の集まりだとしても
大御本尊を自ら捨て、また他人にも捨てせること。
それこそが「謗法」であり「一凶」である。
立正安国論に曰く、
◆悲しいかな数十年の間百千万の人魔縁に蕩かされて多く仏教に迷えり
本尊義を始め教義・化義を毎年の変える創価こそ多くの会員を迷わせる魔縁だろう。
最後に法然が何故このような邪義を唱えるに至ったのか?
それも立正安国論に書いてある。
◆是れ偏に私曲の詞を展べて全く仏経の説を見ず
まさに今の大作センセの邪義は大聖人の仏法によらない
無信心に起因している。
◆人皆其の妄語を信じ悉く彼の選択を貴ぶ
これは、そんな大作センセの「妄語」を信じて
人間革命だの大作スピーチばかり尊ぶ創価カツドウカそのもの。
大作センセこそ「今法然」であり
創価こそ「今念仏」の団体だ。
そして、もう一度書くが
現代の「一凶」とは
大作センセと創価学会に他ならないのである。
大聖人の弟子としてありたいのであれば
まずは、創価の活動を止めることです。