昨年創価の会員資格を、いつの間にやら喪失してた(させられた)俺だが
その事実を知ってからず~っと思っていたことがあった。
それは「内得信仰」するかどうかだ。
モチロン、学会員じゃなくなった途端に
「創価の本尊は偽本尊だ」
「創価の本尊は魔札だ」
なんていうつもりもなければ思ってもいない。
創価じゃあるまいし自分が会員じゃなくさせられたからといって
ころころと節操なく180度本尊義を変える。
な~んてことは俺にはできない。
いまでも「創価の本尊は大御本尊に信を取れば本尊としての用はある」
という主張は全然変わらない。
だから「創価の本尊」がイヤになったからってわけじゃない。
だたなんだろうなぁ。
自分自身の中のケジメ。みたいな感情かな。
今は学会員でもなければ他の団体の信者でもない。
ただの一信仰者。(とっても気楽でいい感じ)
そう思った時に、創価の御本尊にお題目をあげてるのもなんだか違うきがして。
それに創価とは一線を画したい。という思いもあって。
日々勤行・唱題をしててイロイロな思いとかあって。
複雑な心境だったわけですね。
本当は昨年末で創価本尊はおしまいにしようと思ったんだけど
お正月まで・・・三が日まで・・・七草まで・・・
と延ばし延ばしにしてた。
いざ御本尊を仕舞おうとなると、どうしても出来なくてね。
そら四半世紀もこの御本尊と共に生きてきたんだからね。
つらい時・苦しい時・悲しい時そして嬉しい時も
この御本尊に題目をあげ悩みを相談し、
そして解決してもらったんだから
なかなか「この御本尊やめ~た」ってわけにはいかないわけだ。
でも、昨晩の夜の勤行終了後に意を決して
仏壇から御本尊をお下げしてお巻きし仏壇に戻した。
携帯用の御本尊も一緒にね。
寂しかったけど、大御本尊を信じる心に何の変りもないから
これはこれとして、自分の中でひとつのケジメをつけることができた。ということで納得してる。
てなわけで、今朝は御本尊のないお仏壇に向かって勤行・唱題。
今日から「内得信仰生活」のスタートです。
初めての経験だな。
御本尊をお巻きして・・・・
頂いたときの袋に仕舞いました。
携帯御本尊も・・・
仕舞って封印です。
そしてお仏壇の中に置いて、このあとは扉を閉めたのでした。
こんな感じです。
御本尊か掛かっていない仏壇はなんと寂しいことか。
今朝からこの仏壇に向かって勤行・唱題です。