創価ダメだしブログ

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偽書論について

このブログにも数人の方がコメントしてくれた「偽書論」について書いてみる。

昨年中に書くといいながら年越ししてしまったことをまずはお詫びします。

偽書論」については身延系信者達と、もううんざりするくらいやりあったので

偽書論」に出会うとまたこの話かぁっていうのが正直なところなところなんだけど

日興門下としてこの「偽書論」に惑わせててもいけないし

「御書」を学ぶときの基本的な部分の問題でもある。

なので話せば長くなっちゃうのだけど、なるべくコンパクトに書いてみる。

まず「偽書論」は「真筆がない」という所から必ずはじまる。

「真筆」がなければ「ニセモノ」であり、「ニセモノ」だから「用いない」

で、そこから大御本尊や日蓮本仏や血脈相承を否定していくのが

身延系信者のワンパーンなのだが

「真筆」がなければ用いなのら釈迦の経典全てを否定せざる得ないし

科学的根拠がなければ信じない。のであれば

大乗仏典に書かれているような摩訶不思議な現象は科学的に有り得ないので

大乗経典など信じるに足らないおとぎ話ということになる。

そのへんの自己矛盾を説明しないまま話を進めようとするのが身延信者だが

この件については昨年シャリホツさんが以下のようにリコメをくれた。

【管理人さんは「法華経の優位性」というものをどのようにお考えなのでしょうか。まさか「正直捨方便」と書かれているから法華経が優位なんだ、なんて思っていませんよね。法華経が優れているのは、「一仏乗」「諸法実相」「久遠実成」など、説かれている内容です。それは法華経が例え「おとぎ話」だったとしても、揺らぐものではありません。「おとぎ話」だったら無価値だと考えるのは「依義不依語」が分かっていないと思います】

実はこのリコメこそ全てなんです。

法華経が何故最上位なのかというと、その内容ゆえなんですね。

つまり釈迦の真筆があろうとなからろうと、

書かれていることが科学的に立証されようとされまいと

そんなことは何の関係もない。ということです。

法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり(三大秘法禀承事)

とあるように、法華経を諸仏の出世の本懐とするのは

釈迦の直説・直筆だからでなく、あくまでも「三大秘法を含めたる経」だからなのです。

これを言いかえると、釈迦仏法において法華経は経典ではなく「法体」である。ということです。

「法体」であるからこそ「諸仏出世の一大事」と大聖人は言われいるわけです。

ではこの法華経と他の教典の関係性は?というと

法華経一部八巻二十八品進んでは前四味退いては涅槃経等の一代の諸経惣じて之を括るに但一経なり始め寂滅道場より終り般若経に至るまでは序分なり無量義経法華経普賢経の十巻は正宗なり涅槃経等は流通分なり(観心本尊抄)

つまり法体である法華経は正宗分、爾前は序分、涅槃経は流通分という関係です。

ですが、一度法体が顕れれば序文・流通分ともに流通分になるわけです。

◆所詮成仏の大綱を法華に之を説き其の余の網目は衆典に之を明す、法華の為の網目なるが故に法華の証文に之を引き用ゆ可きなり(観心本尊得意抄)

大聖人が爾前に固執することを破折したのは、「流通分」である、法門を法体と捉える間違いを指摘しているわけです。

さて、ここまで書けば懸命な読者の皆様にはもうお分かりかと思いますが、

大聖人の御書とは釈迦の各経典と同じに捉えなければいけません。

つまり「御書」は「法体」でなく「法門」であるといことです。

私が男子部時代、観心本尊抄の五重三段を講義するときに必ずもう一重加えました。

それは大聖人仏法における三段です。

釈迦の経典、龍樹・天台・伝教等の論釈、大聖人の佐前の御書は「序文」

大聖人の佐後の御書は「流通分」です。

そして大聖人仏法の「正宗分」とはもうわかりますね。

大聖人の「出世の一大事」(出世の本懐)であり、法体である

一大秘法の戒壇大御本尊です。

そして、法体(大御本尊)を顕して後は

序文も全て流通分になるわけです。

これが私がいつも言う「御書は法体でなく法門である」ということです。

では「法体」と「法門」はどう違うかといえば、全く乖離しているわけではありません。

◆経の中の法門は其の経の題目の中にあり(曾谷入道殿御返事)

とあるように、上記の「其の経の題目」とは

大聖人仏法では「一大秘法戒壇大御本尊」です。

そして「法門」(御書)とは、この法体(大御本尊)の中にある。

逆に言うと大御本尊の外にはない。ということであり

大御本尊に帰結しない教えは「法門」とは言えないということです。

さらに言えば「法門」とはあくまでも「法体」(大御本尊)説明であり

「法体」を教え広めていく(流通する)為にあるものです。

ですからシャリホツさんが法華経について述べたように

誰が書いたか?とか真筆があるか?とか科学的に証明できるか?

というような次元の話は全く無価値であり無意味なのです。

重要なのは「法門」として正しいか?正しくないか?という内容なのです。

結論を言えば、学術的な考察で御書の真偽を問い

それをもって大御本尊を否定する身延の主張は

私からすれば全くもって「御書」を語る資格などないと思うわけです。

(御書とはなんであるか理解できていない)

「御書」の真偽を言う前に、まず「大乗仏説」を学術的見地から証明しろよ。って話です。

では「法門」としての正当性はどこで決めるのか?って話になりますが

そこが仏法が相伝(口伝)である所以であり

仏法の相伝は経巻相承ではなく法体相承である所以です。

この話も長くなるので本日は割愛します。

言えることは釈迦仏法も法華経という「経典」を信じるのでなく

法華経という「法体」を信じることなのです。

以上、簡単に「偽書論」についての考えを書きましたが

私の考える「偽書」とは「御書」そのものの真偽ではなく

読み手の信心の真偽の問題だと思ってます。

上記しましたが「法門」とは必ず「法体」に帰結することをもって「法門」と呼びます。

身延をはじめとする「偽書論者」の方々は「法体」に帰結しません。

というか既に眼前に法体は明らかであるのに

「法門」からまた「法体」を知ろうと無駄な努力しているわけです。

凡夫が知ろうとして知れると思っているならば

●諸仏智慧。 甚深無量。其智慧門。難解難入。一切声聞。辟支仏。

法華経の文を否定することになります。

それはさて置き、「法体」に帰結しない御書は「法門」ではありませんので

真筆だろうとその人の読む御書はずべて「偽書」です。

とはいえ身延信者の方々にとっては「法体」は法華経ですからそこは仕方ないし

また仏教学を純粋に学ばれている方も、

大聖人の御書をどう受け止めようと自由ですので批判をする気もありません。

問題は、大聖人を末法のご本仏とか言っておきながら

大聖人の御書の一部を「偽書」扱いしたりする学会員です。

これこそ邪智・謗法の輩であると断言します。

また、そのような学会員の読む御書は全て「偽書」であり

そのような「偽書読み」をしている学会員の言うところの先に「法体」はありません。

どうか、純真たる会員の皆様には

正しく「御書」を拝してもらいたいと願うわけです。

「御書」を正しく拝する。とは決して難しいことではありません。

「大御本尊に対する信心」が「強く」「深く」なるように読むってことです。

そのように拝読することができれば

皆さんの「御書」はだれがなんと言おうと

ご本仏の「ご金言」なのです。

ざっくりと手短に書いたので、(しかも少し眠気もあり~の)

よくわからない部分はあると思いますがご容赦ください。

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