大御本尊に信を取れば組織に属さなくてもいいのでは?
という趣旨のご質問を受けましたので
今日は、この事について書いてみようと思う。
結論を先に言えば、大御本尊に「信」を取れれば
組織の属さなくても、構わない。と思っている。
俺自身一応、創価に籍は置いてはいるが
(創価が勝手に俺の統監を抹消していねければだが)
カレコレ十数年、創価の組織との関わり合いはない.。
でもこうして今でも「信心」を続けていられるし
むしろ、創価の組織で活動していたころより
自分の中では「信心が深化」したと思っている。
信心の組織の目的は何かと言えば
「大御本尊の元へ自他ともに進んでいく」
「大御本尊に対する絶対的な信を取れようになる」
っていうのが1丁目1番地だと思うから
「大御本尊に信を取れれば、
それはもう信仰者としての目的を果たしたのだから
組織に所属せずとも
自立した一人の信仰者として生きていけば十分だ。
「それでは本流ができないではないか」と言われそうだが
組織に所属しなくても、自分の友人・知人に本尊流布したければ
折伏の親(紹介者)になってもらえばいいだけで
知り合いがいなければ(学会員は多分いるだろうが)
近くの正宗寺院へいき「正宗に入信したい人がいるんですけど」
と相談すればなんとかなる。
(自分が所属していない組織に友人だけ所属させられるか?が問題だが)
このように、組織に所属していなくても
まぁ何とかなるものだ。
言わば、単己の菩薩っていうヤツだな。
「単己の菩薩」というは、眷属を誰もひきつれないで
たった一人で法華経の会座にやってきた菩薩だ。
●一一の菩薩皆是れ大衆唱導の首なり。各六万恒河沙等の眷属を将いたり。況んや五万・四万・三万・二万・一万恒河沙等の眷属を将いたる者をや。況んや復乃至一恒河沙・半恒河沙・四分の一・乃至千万億那由他分の一なるをや。況んや復千万億那由他の眷属なるをや。況んや復億万の眷属なるをや。況んや復千万・百万・乃至一万なるをや。況んや復一千・一百・乃至一十なるをや。況んや復五・四・三・二・一の弟子を将いたる者をや。況んや復単己にして遠離の行を楽えるをや。是の如き等比無量無辺にして、算数・譬喩も知ること能わざる所なり。 (妙法蓮華経従地涌出品第十五)
実は、地涌の菩薩のうちで、
一番人数が多いのがこの単己の菩薩なのだ。
たった一人であっても、
御本仏の弟子として、大御本尊を信じ抜いて生きていけば
それはそれで、立派な地涌の菩薩である。
とはいえ、大聖人の仰せに任せれば善知識は大切なのも事実。
◆善智識と申すは日蓮等の類の事なり、惣じて知識に於て重重之れ有り、外護の知識同行の知識実相の知識是なり((御講聞書)
このなかで、同行の知識とは共に信心に励む者同士ということで
大聖人も、そうした同行の善知識を持つように推奨されている。
◆一切の諸人之を見聞し志有らん人人は互に之を語れ。(法華行者逢難事)
◆志有らん諸人は一処に聚集して御聴聞有るべきか。(富木殿御書)
◆心ざしあらん諸人は一処にあつまりて御聴聞あるべし(寺泊御書)
◆此文を心ざしあらん人人は寄合て御 覧じ料簡候て心なぐさませ給へ(佐渡御書)
信心の志を持つもの同士は、
集まって皆で語り合いなさい。
皆で学び合いなさい。
と大聖人が言われてるわけで
それに従えば、やはり組織に所属するは大切であるとも思える。
そう考えると、問題はその組織か「どのような」組織か?ということ。
大聖人の言われているような集まり(組織)か?ということになる。
もっと具体的に言えば、創価と正宗のどっちがいいのか?ということだろう。
(それ以外の団体はここでは取り上げない)
まぁ、俺は法華講の組織のことは知らないが
創価と比べ特別にいいところでも、特別に悪いところでもないと思う。
自分と合う人も、合わない人もいる
威張った幹部や僧侶もいれば、そうじゃない幹部や僧侶もいる。
創価にいても法華講にいても、楽しいことも嫌なこともあるだろう。
となると、所属するなら惑うことなく法華講だろう。
理由は、当然宗門には大聖人(大御本尊)がいるからだ。
創価も法華講も(その他の教団も)そこにいるのは皆同じ荒凡夫だ。
違いは保っている「法」だけだが、
仏法の組織にとっては、そこが肝心要だ。
◆法妙なるが故に人貴し人貴きが故に所尊しと申すは是なり(南条殿御返事)
そういうことだと思う。
とはいいつつ、俺はまだもう少し「単己の菩薩」でいるつもりだ。
「おい、おい、自語相違かよ」
と突っ込まれれば、面目もないが
まだ「単己の菩薩」でいる必要があると思っているのだから仕方ない。
まぁ、しょ~もないオヤジである。