創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

青連さんのコメントへ(理証による日蓮本仏論)

青連さんこんにちは。コメントありがとうございます。

コメント欄にリコメ書こうと思いましたが

少し長文になりそうなの記事にさせてもらいます。

(今回のコメントの枝葉部分いついては割愛しなるべく手短に書きます)

まず、私の意見に対する理解についていは青連さんが列挙した通りで間違いないです。

>管理人さまの証明は、「釈尊とはインドに生まれた一人の人物(史的釈尊)である」という事を、大前提としているのだろうと思います。

>ただ、今日の釈迦本仏論は『法華経』に説かれる「久遠実成の釈尊」という、超越的な実在を本仏としているものが大半です。

これについては、一応は史的釈尊に約していますがその意味するところは「久遠実の釈尊」です。

また、日蓮大聖人も同じです。史的大聖人に約していますが、

私が御本仏と表現しているのは「久遠元初自受用身の日蓮」という意味です。

(因みに史的日蓮を本仏という時には「末法の御本仏」と表現するようにしています)

ですので、「史的な特定人物を仏」という発想は持ち合わせいません。

釈尊日蓮と史的人物に約していますが、その趣旨とするところは

「久遠実の仏」である釈尊と、「久遠初の仏」である日蓮の「本・迹」です。

その「本迹」についての議論は今回はしません。

(いずれ記事に書くかもしれませんが)

今回記事で一番言いたかったのは、「久遠実釈尊」は「本」だというなら

その「久遠実釈尊」が説いた教法を実戦するべきだろう。ということです。

仏の説いた教法と違う事を実践することは道理に合わない。ということです。

その上で、学問上の事を言えば、釈尊は何も説いていない。ではないかと。

何も説いていないのであれば誰も救えない。

誰も救えないのに「仏」と主張するには無理がある。

とまぁ、単純な話です。

さて、では釈迦無記説や大乗非仏説を捨てて「法華経」を「久遠実釈迦」の仏説である。

という本来の信仰者の立ち位置で考えるとどうでしょうか?

他宗派の否定する「文底読み」をせずに「法華経」を読むと

「久遠実釈迦」の教えとは、法体は「法華経」で修行は五種妙行ではなでしょうか。

であるなら「久遠実釈迦本仏」を主張する宗派は

法華経(経典)」を本尊にし、五種の修行をすることが

自分達の「仏」の教えを守るということになります。

「久遠実釈迦仏」が明確に示した教法をせずに

日蓮菩薩が示した教法をすることは

むしろ「久遠実釈迦仏」を蔑ろにする行為と思われます。

このように、釈迦仏が教法を説いたと取っても

身延等の言い分はあまりにも苦し紛れで理屈に合わないと感じます。

(これは大御本尊を棄てた今の創価にも当てはまります)

日蓮自身が何を信じていたかという点に主眼を置くべきだと考えていること。また日蓮の理論化した唱題行は、彼の完全なる独創というより、当時の仏教学的蓄積の上に出ているものであり、あくまで日蓮の『法華経』身読に基づいていること。さらに、『法華経』を通じて、本仏・釈尊にアクセスできるというのが、日蓮思想の特筆点最大のものの1つだからです。

これに関しては、少し違うと思います。

大聖人仏法の特徴のひとつは「人法一体」です。

ですから、「法華経」(法)を通して「仏」に通じる。

という思想はないかと思います。

(弟子たちへの教化の過程でそのような言い回しをした場合はあると思いますが)

また、「法華経」の身読に基づいて、三大秘法を顕した

というのは違うと思いますが今日は割愛します。

>むしろ、あえて「仏」を概念化するならば、それは「実体」や「超越的実在」のような絶対的な真理や概念という方が、私や多くの仏教者の見解のようです。

そのようですね。それが釈迦仏法ですからね。

要は釈迦仏法っていうのは、「何も分からない」のです。

「法」を説く。と言ってもそれが具体的に何なのか誰もわからない。

というか、釈迦仏法において「法」は

言葉にした時点で「法」でなくなるのです。

ですから、釈迦仏法においては

仏は「法を説かない」のが正解です。

また、絶対的真理を仏と概念。というのは真言密教に近い発想です。

大日如来法身(宇宙の法則)=根本仏。みたいな。(今の創価のコレに近い)

結局、仏のことも、法のことも、何も知ることができない。

そこが釈迦仏法の限界であり

釈迦仏法が本果妙・脱益仏法といわれる所以です。

>「理証」とは、個人的信仰観念や宗教的世界観という閉鎖的枠内で「自然」とされる教義を正当化する役割しか果たさないものだと思います。「特定の史的実在人物を本仏とすべきである」「法本尊信仰者も、それを図顕した人物を本仏と仰ぐべきである」などの個人的信念に基づいた命題は、根拠づける事が不可能であり、議論は平行線を辿らざるを得ません。

その通りですね。

でも、それは「釈迦本仏論」者でも同じです。

そして命題を根拠付けることは永遠にできません。

できるくらいならとっくにできています。

そのうえで、繰り返しになりますが

自分達が仏と定めたのなら

その「仏」の教法を実戦するべきである。という道理です。

会社の社長が具体的な仕事を指示しているのに

別の人の指示する行動をするのは道理に合わない。

仏法とは道理ですから、道理にあわない主張は間違っていると思います。

もちろん、「釈迦本仏」を主張する方が、

別の「道理」によって、自説を説明するなり、他説を否定するなりしてくれれば

それはそれで「正しい」と判断しますが

今のところ、そのような説明は見当たりません。

(もちろん、ソレも私の個人的観念なのですが)

>私は「日蓮本仏論」を採用することは個人的信仰の次元では全く問題ないと思いますが、日蓮正宗創価学会がそれを他教団批判に用いていることに対して、懐疑的です。それは結局、「自分たちが信じているものの方が正しい」という、ドグマティックな論争にならざるを得ないからです。そのような論争をするならば、「実在人物を仏とすべきである」「日蓮自身が何を信じていたかよりも、彼を本仏と仰いだ後世の人間の説を優先すべきである」というような、議論の基本的枠組みを確定させる試みが必要だと思っています。 本点、管理人さまのお考えはいかがでしょうか?

仏教学を学している学者諸氏は

持論により各宗派を否定することはなく

また、持論により不特定多数の人々を

特定の宗教に誘導することはありません。

要は、「法論」も「折伏」もしないので、

そのような学者諸氏が持論を展開しも問題ありません。

「ああ、そのようにこの人は考えているんだ」と思うだけです。

その、学説に共感する人もあれば、そうでない人もいる。それだけです。

富士門流の教義を否定するのは、

特定の宗派に所属している学者と言われている人や

特定の宗派に所属している信者が

そうした学説を使い富士門流の教義を否定するからそこに「論争」が生まれます。

つまり、「日蓮本仏論」等の富士門流の教義を否定するのは

学者であろう、一般人であろうと、富士門流に反対する側の「信者」です。

ですので、いわゆる「対論」「法論」とは「信者同志」でないと起こりません。

よって「法論」とは、その基底部分においては、

「学問」の範疇でなく、「信仰」の範疇です。

「信仰」における「学」とは「信」がその中心となります。

これは「法論」だけなく「折伏」も同じです。

そして「信」とは何かといえば

「自分の信じているものが正しい」と信じることです。

ですから、「法論」は平行線であることが大前提です。

また信仰とはドグマ(教条)そのものなのです。

よく、創価幹部・活動家は私のような人間を「教条主義」と言って批判します。

教条主義」は「悪」かのような、または侮蔑的に見ていますが

「教条」「教義」が無ければ信仰は成り立ちません。

仏の決めた「教義」を「教条主義」と軽蔑し

「修正主義」を全て「是」としてしまうと、

「仏法」は滅んでしまいます。

話は逸れましたが、議論の枠組みを作ることが

できればいいと思いますが現実的には無理です。

元来は、日連系の中での「法論」においては

大聖人の「御書」を文証として、その正邪を判定してましたが

身延等は「偽書」説(正確には完全に偽書とは判定できない)を持ち出すので

唯一のコンセンサスを得られ手段はなくなりました。

ですから実際に「法論」の場合は、統一ルールを決める。という手段です。

偽書」の定義を決めたり、「文底読みをしない」とか、「人師論師の説は用いない」とか

そうやってルールを決めて「法論」しますが

大抵は、身延側はルール破りします(笑)

何か、共通のルール・スキームができるといいと本当に思います。

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