創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

仏教学と教学①

創価学会員で「仏教学」を真剣に学んだっていう人はまずお目にかからない。

教学っていうと大抵は御書までで終わる。

その御書だって全編を学ぶ会員は少ない。

なかには・・・いやそのほとんどが御書にも到達しない。

池田センセのスピーチやら

人間革命ばかり主なテキストにして

御書は後回し。

しかも御書を読むのでなく、

御書の御文が書いてある大白蓮華を使う。

それが「学」と思っている大半の会員は

「仏教学」など歯牙にもかけない。

そんな中、昨日記事にした青蓮さんが

「仏教学」を学んでいるというのは

今時の学会員が?という意味で驚きであり素晴らしいと思う。

「仏教学」を学ぶ必要があるかないかで言えば「ない」

ただ、教学を学んでいくと一度は通る道であると思っている。

ここを通らないと「教学マニア」「教学ヲタク」と呼べない(笑)

そんなこんなで俺もかつてこの道を通った。

もっとも俺は青連さんのような「現代仏教学」は大して学んでいない。

以前、身延信者との対論をした時に

チラッと勉強したくらいだ。(チラっとくらいで十分だと思ったし)

俺が学んでいたのはどちらかというと

釈尊の仏典やその他論釈などの教典の方。

きっかけは、ある日何気に御書に引用されている経論の数を数えてみた事だった。

正確ではないにしろ130篇位の経論が引用されいた。

で、この経論には何が書いてあるのか?

それが無性に知りたくなった。

学会員なら法然の「選択集」って聞いたことあると思うが

「選択集」を読んだことはないだろう。

俺もそうだった。だから何が書いてあるのか知りたくなった。

そうした好奇心が高じて「仏教学」へと進んでいった。

俺は主に、中村元教授の書籍をテキストに使った。

原始仏典の、「「スッタニパータ」や「ダンマパタ」から始まり

やがて大乗仏典。「浄土三部経」や「華厳経」「般若心経」「勝鬘経」「維摩経

蘇悉地経」「大日経」「金剛頂経」などの経典

その後、龍樹の「中論偈」や馬鳴の「大乗起生論」、源信「往生要集」から~の「選択集」

親鸞歎異抄」や道元正法眼蔵」の有名どころも研鑽した。

勿論、天台・伝教も。

更には、各宗派の教義を学んだり、外道義を学んだり

ともかく自分に入手可能な経論の研鑽を3年あまりした。

でも、さっぱりわからない。

勿論、各経論にかかている内容は読める。(読めるように書いてあるし解説もある)

でも、釈尊の説くところの「法」とは一体なんなのか?

それがサッパリわからない。

「法」とは何か?その頃の俺の中の一代テーマだった。

「法とは法とは何か?」とかもっと言えば「法」と名づけた時点で「法」ではない。

みたいな禅問答の繰り返しだ。

もうほとんどノイローゼ状態である(笑)

そんな中、唱題をしいてついに「法とは何か」という答えが見つかった。

そう、法とは「御本尊」だったのだ。

ずっと目の前にあったのだとようやく気がついた。

その日を境に俺の「仏教学研鑽」は終わった。

「そんなの最初からわかってんじゃね~か」

「だから仏教学なんて学んだった無駄なんよ」

そう思うかもしれない。

俺も確かにそう思う。

3年も何やってたんだろうって思った。

けど、その3年間の自由研究は無駄にはなってないと今でも思う。

そこが無ければ「法とは御本尊」と本気で思えなかったような気がする。

そう言う意味で3年間の「仏教学」の勉強は有意義だったと思う。

ただ、この「仏教学」ってのは諸刃の剣で

使い方を間違うとミイラ取りがミイラになる。

俺も最初は「大聖人仏法研鑽」のために

経論や仏教学(主に歴史学)を学び始めたが

それらを学んでいるうちにやがて大聖人仏法から離れていって

いつかし釈迦仏法へとハマっていった。

この釈迦仏法にハマると

どうしても「法」が中心となってしまう。

そもそも「仏法」は凡夫に理解できない。と言われているのに理解しようとする。

そうすると「法重視」になり、「仏」はどうしても軽視しがちなる。

そうなると人法一箇の大聖人仏法から離れ

やがて大御本尊すら「単なる法を具現化した存在」としか見られなくなる

池田教学とはまさしくこのルート。

そして池田教学を基礎とする創価教学のこのルートであると思っている。

池田センセは色々なことを学ぶうちに、

いつしかミイラになってしまったのだろう。

自身の知識の酔いしれて自分がミイラになったのも気づかない。

そして最悪なのが多くの弟子を同じようにミイラにしている。

知識はあるが知恵がない。いや信心がない師匠と。

信心(正誤は別として)しかない弟子が

揃って大御本尊不受を是としたのだろうな。

話はそれたが「仏教学」ってのは

常に退転という危険と背中合わせなんだなぁ

ってのが、俺の体験談である。

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